漢詩方術士レューン |
2 3 前方に黒い牛の姿がこちらに向かって来るのが見えた。あれは暴れ牛だ。 「もうすぐ村に着くと思ったら暴れ牛が猪突猛進の大歓迎か!」 「いや、私が思うに、あれはお世辞にも歓迎しているとは言い難いね。それに猪じゃなくて牛だし」 ブ・ホゥラの台詞に対して、レューンは冷静に返答した。 それまでは、森の脇を通り抜けて行く道は平穏だった。時々、牛に牽かせてゆっくり進む荷車とすれ違う時には、道端に避けなければならない。昨日降った雨が轍に溜まっているので、そこからの跳ね上がりにだけ注意していれば良かった。森の中の日陰には、まだ雪が残っているようだが、日当たりの良い道はすっかり春だ。 道端では気の早い 二人の方に向かって突進して来る牛は、立派な角を生やしている黒い雄牛だ。かなり大きい。まるで激怒しているかのような、叫び声のごとき大きな鳴き声をあげながら道の真ん中を駆けて来ている。 「レューン! 避けろ!」 怒鳴りながら、ブ・ホゥラは道の脇に回避して牛をやり過ごした。ブ・ホゥラは力自慢の大柄な若者ではあるが、敏捷さも兼ね備えていた。 「避けるなと言われても、この状況なら避けるしかないね」 大男であるブ・ホゥラとは対照的に小柄な少女のレューンも、素早く体を開いて、ブ・ホゥラとは反対側の道端に寄った。黒っぽい濃紺の道服の袖と、背中に垂らした小さな三つ編みが動きに沿って揺れた。 道の両脇に避けたブ・ホゥラとレューンの間を、暴れ牛は走り過ぎた。そしてそのまま一目散に走り去ってくれれば二人にとっては都合が良かったのだが、そうはならなかった。黒き雄牛は速度を落として立ち止まったと思ったら、方向転換し、鼻息荒げながらブ・ホゥラとレューンを睨み付けた。大きな声で鳴く様子は、もはや雄叫びか咆吼とでも呼ぶべきものだった。 「どうやら闘わなければならないようだね」 十三歳の少女としては落ち着いたやや低めの声で、レューンは呟いた。 「戦いか! 望むところよ! 力は嘘をつかないのだから、俺の力を見せつけてやるぜ! 力こそ正義。力こそ真実。力こそ神。力こそ腕力。力こそ膂力!」 「最後の二つは文脈的な意味でいうと、力と同義だから。同語反復で、力こそ力、って言っているようなものだから」 「そんなことはどうでもいい! 力こそ力! 大いに結構。危ないからレューンは下がっていろ!」 ブ・ホゥラは小柄な少女レューンを庇うように前に出ると、意気揚々と腕まくりをした。が、白い衣服の袖はすぐに手首のあたりまで戻ってきてしまって意味は無かった。 もう一度腕まくりし直そうとするブ・ホゥラを待っていてくれる雄牛ではなかった。口を大きく開けて涎を垂らしながら、怒り狂ったかのごとき鳴き声を伴って、ブ・ホゥラに向けて突進してきた。二本の角で相手を串刺しにするべく、逞しい蹄で黒っぽい土を踏みしめて疾駆する。 「うぉぉぉぉっ! 俺の力を見よ!」 雄牛に負けない大声で咆吼をあげて、ブ・ホゥラは雄牛の二本の角を左右の手で握って掴んだ。雄牛の猪突猛進を受け止めた、と、思ったが、勢いを殺しきることができず、地面に足を踏ん張ったまま、少しずつ後ろに押し込まれていった。 「おいおいブ・ホゥラ、威勢のいいことを言った割には、牛に負けているじゃないか」 「うるさいな。足が轍の水溜まりに入ってしまって、滑って踏ん張りが効かないんだよ。早く援護してくれ!」 本人の言う通り、ブ・ホゥラの右足は、道に刻まれている二本の轍の片方に入り込んでいた。白い 「このまま力勝負に負けて牛に押され続ければ、歩かずに村に到着できるじゃないか。良かったね」 レューンは、自分より五歳上のブ・ホゥラに対して遠慮無く辛辣な言葉を吐いた。ブ・ホゥラと雄牛はレューンが見ている前を通り過ぎて村の方へと少しずつ進んでいる。 「いいから早く援護を頼むって! それとも即興で漢詩が思いつかないのか?」 「そんなことはないよ! 失礼だな。だったら、私の実力を見せてあげようじゃないか」 レューンは表情を引き緊めた。大きな目は少し垂れ気味ではあるが、黒き瞳に強い光を宿した。朱唇から音吐朗朗たる詠唱が紡ぎ出される。 春風駘蕩靄余暉 春風、 睡眠深閨未解囲 睡眠 莫厭重遊於短夢 陶磁高枕入霞微 陶磁の高枕、霞に 黒い雄牛を指さしながらレューンが唱えたのは、一句あたり七文字で四句から成る七言絶句の漢詩だった。詠唱に呼応するようにして方術が発動した。雄牛の周囲を、薊の花のような薄紫色の霧が覆った。その霧が雄牛の体に吸い込まれていくと、変化が生じた。 急に体が弛緩し、雄牛の進撃は止まった。生まれたての仔牛のように足元がふらつき、立っているのも覚束なくなった。 「やったか?」 二本の角を掴んでいた両手を離しながらも、ブ・ホゥラは油断無く雄牛の様子を見続けた。 「眠りの漢詩方術だよ。既存作じゃなくて即興だから、効果覿面のはずだよ。これでこの牛はしばらくは眠ったままだね」 特殊な才能を持ち訓練をした者が、体内の気を練り上げて常人には不可能な不思議な効果を生み出す技を方術という。そして漢詩を詠唱することにより更に威力を高めた方術を駆使するレューンのような使い手は、漢詩方術士と呼ばれている。 突然襲われた眠気に、黒い雄牛は抗し得なかった。涎は相変わらず垂らしたまま、両目の目蓋は次第に下がってくる。四本の脚は力が入らなくなっており、大きな胴体の重さを支えられなくなっていた。 遂に牛は、脚を伸ばしたまま右側に横倒しになった。地面にぶつかって重い音を立てる。眠っているのでなければ、かなり痛そうな音だ。 「よし、上手く行った。……って、あれ?」 レューンは瞠目した。方術が効いて立ったまま眠ってしまった牛は均衡を崩して真横に倒れた。が、地面に衝突した衝撃で、目を覚ましてしまっていた。首を持ち上げ、寝そべった状態から立ち上がろうとしている。 「おいレューン! 眠ったはいいけど、倒れた痛みで目が覚めるとか、どういう茶番劇だよ。ちゃんと方術を発動させたのか?」 「お、おかしいな。本当にちゃんと方術が効いたら、ちょっとくらいの刺激では目覚めないはずなんだけど。詠唱が、どこか失敗していたのかな?」 「おい」 「どこか一箇所くらい 言葉の最後は春の雪融けのように消え入ってしまった。漢詩方術士といっても、レューンはいまだ年齢も若く、修行中の身だ。失敗することもあった。 「まあいいさ。やはり最後に頼りになるのは、この俺の力ってことだな」 相棒の失敗を喜ぶわけではないが、ブ・ホゥラは自分の活躍の場が回ってきたことに歓喜していた。 再び立ち上がって、牛とは思えぬような咆吼をあげながら向かってくる相手に対して、ブ・ホゥラの対応は代わり映えの無いものだった。雄牛の二本の角を両手で掴み、足を踏ん張って力較べだ。 「ぐぐぐぐぐ! どうだ。俺には同じ技は二回は通用しないんだぜ!」 雄牛が押し込もうとしても、ブ・ホゥラは後退せずにその場に留まって持ちこたえた。最初のぶつかり合いのときには牛の方が突進する勢いがあったが、今はお互いに立ち止まったままの力戦奮闘だ。それに、牛の体にはレューンの漢詩方術による眠気の影響が残っていて、万全の力が入っていなかった。 牛は吠えた。鳴いた。叫んだ。されど、方術の影響が残る体でいかに力を振り絞ろうとも、怪力自慢のブ・ホゥラは壁のように立ちはだかり、動かなかった。 端から見れば、ブ・ホゥラと雄牛の熱闘は、その場で我慢しながら静止しているだけのように見えた。つまり、この場で自由に動けるレューンの行動次第で、この戦いを終わらせることができる。 「さっきは何故か失敗したみたいだけど、今度こそは……って、あれっ?」 レューンの大きな瞳は捉えていた。雄牛の黒い背中に、木の破片が突き刺さっていることを。長さとしては、レューンの手の指先から手首くらいまでだろうか。まるで、落雷に撃たれて裂けたように先端が鋭く尖っているので、何らかの理由で突き刺さってしまったらしい。雄牛はこれが痛くて、悲鳴をあげながら走り回って暴れていたのだ。 「そういうことだったのか。可哀想に。でも、もう大丈夫だから」 目を閉じて、リューンは大きく一呼吸した。臍下丹田にて気を練り上げ、同時に即興で詩を構築する。心の中で五言絶句がまとまった時、レューンは目を開けた。黒牛の背の木片が突き刺さっている部分を凝視して、静かに、だがはっきりとした口調で漢詩を吟詠する。 夢繞辺城月 夢は 陣雲之已時 陣雲、 茱萸黄菊節 郷里輒吟詩 郷里にて 夢は、戦の場である辺境の城に懸かっている月をめぐって離れない。 しかし、陣形を保ち進軍する時にわき起こる土煙の雲は、これはもう、やむ時なのだ。戦争は終わりだ。 重陽の節句というのがある。高い所に登って遠い故郷の方を見て懐かしむ日だ。その日に、茱萸という赤い木の実を身に飾って厄除けとしたり、菊酒を飲んで長寿を願ったりする。故郷に帰ろうではないか。 郷里に帰って、すなわち、詩でも吟じながらのんびりと過ごし、戦いで傷ついた心と体を癒そう。 という意味だ。つまり戦いが終わって傷を癒す方術である。 今度は押韻も平仄も間違えていなかったようだし、詩の内容もそれほど悪くはなかった模様だ。方術が発動し、牛の背に突き刺さっていた木片は、空中に浮き上がって抜けて、そのまま地面に落ちた。刺さっていた物が抜けた後の傷口は、あっという間に肉芽が盛り上がって塞がった。原因が取り除かれたこととレューンの漢詩方術の効果により、雄牛の興奮も落ち着いたようで、もう悲鳴のような鳴き声をあげることもなくなり、角でブ・ホゥラを突き刺そうと前進するのもやめた。 「おっと、力較べはおしまいかい?」 ブ・ホゥラも、牛の角を掴んでいた両手を離して、力を抜いて大きく一つ息を吐いた。騒動の元凶となった雄牛はというと、暴れて疲れたのか、その場に座り込んでいた。 「あんた、今、見とったで。唐詩方術士なのか。若いのにみごとな腕だったなあ」 背後からの声に、レューンは振り向いた。農夫らしい中年男が、遥かに年下のレューンを尊敬の眼差しで見ていた。 「今、ウチの村に妖怪が出没するようになっていて、みんな困っているんだ。助けてくれないか? ウチの村にも、去年までは唐詩方術を使える者が二人いたんだけど、今はいないんで。普通の人間じゃ妖怪とは闘えないんで、どうしても唐詩方術士の力が必要なんだよ」 唐詩方術というのは漢詩方術の別称だ。農夫の言葉に反応したのは、レューンよりもブ・ホゥラが先だった。 「妖怪退治か。ならばこのブ・ホゥラ様に任せなさい。この銀帝国で一番力の強い男になることを目指して武者修行をしているのだ。そのへんの妖怪などは、ちょっとした経験値稼ぎに丁度良い相手だ」 自信満々のブ・ホゥラの言葉に、農夫は髭の濃い顔に困惑の皺を刻んだ。 「えっと、こちらの大柄なお兄さんも、唐詩方術士なんですかね?」 「いや、ブ・ホゥラは違うよ。私はレューンといって、漢詩方術士だよ。困っている人を助けるのはいいけど、旅を続けるための路銀が必要なので、妖怪を退治した時には報酬を受け取れるよう約束してほしいんだ。どうだろう?」 「ほ、報酬か。それは、村長に相談すれば出してくれると思う。まずはオラと一緒に村に来て、村長に会ってくれないかね?」 報酬は村長との交渉次第ということだろう。ならばレューンには断る理由は無かった。報酬の話が出る前からやる気満々だったブ・ホゥラは言うに及ばない。 農夫の男が先導する形で、三人は村へと向かって行った。元々村で飼われていたのだろう、黒毛の雄牛もまた、三人に従うようにして後ろをついて歩いてきた。 ●●○○● 村長宅は村で一番大きな家であるようだった。四方を壁で囲われている四合院方式の住宅で、南北に細長い中庭では赤い牡丹や黄色い棣棠などが咲いている。 農夫の案内があったので、ブ・ホゥラとレューンは村の門をくぐる時も咎められることはなかったし、村に入ってからも道に迷うことはなかった。黒牛は、村の門をくぐってから自分の飼い主の家に帰ったのだろう、いつの間にかいなくなっていた。 「漢詩方術士? おお、禍福はあざなえる縄のごとしというが、運が良い方にめぐってきましたかな」 古典文学の本が所狭しと並んでいる書斎で面会したこの村の村長は、白髪に白髭の老人だった。 「話は既に聞いていると思いますが、村に炎の鳳凰が出没して、困っているのです。今のところ、村の住居が焼かれたことはありませんが、村の外の森で、何本も木が燃やされているのです。村人はみな、不安を抱いています。これでは、臨月の妊婦も安心して出産にのぞめません」 村長と向かい合う形で、レューンとブ・ホゥラは並んで椅子に座っていた。ブ・ホゥラは力仕事専門なので、こういった場面での交渉はレューンが行うことになる。 「案内してくれた人にも話しましたが、私たちは旅をしています。行った先々で何かの仕事をして報酬を得て路銀としています。炎の鳳凰を撃退することは承りますが、報酬のお約束をお願いします」 村長は小さく首をひねった。 「報酬ですか。ウチの村は見ての通り、畑を耕して牛や山羊などの動物を飼って生計を立てている裕福とは言えない村です。そんなに多額は出せませんが、漢詩方術士一人分ということで、なんとか頑張ってお出しします」 「一人分ではなく、二人分お願いします」 「えっ、でも漢詩方術士はあなたですよね。こちらの大柄な方は、お付きの方とお見受けしますが」 「付き人扱いとは失礼ですな。俺の方が主人で、漢詩方術士レューンの方が付き人ですぞ」 ブ・ホゥラが牛のように鼻の穴を膨らませた。 「どっちが主人とか付き人とかはともかく、私とブ・ホゥラは二人で組んで仕事をしています。漢詩方術は、漢詩を詠唱している間はどうしても隙ができてしまいますので、そこを守ってもらうブ・ホゥラは欠かすことのできない存在です。私たちは二人で、お互いの長所を活かしてお互いの欠点を補い合うようにして、銀帝国の各地を旅しているのです。相手が妖怪などといった超常の怪異であっても、ブ・ホゥラの腕力は色々と役に立ちますよ。そういう部分をご理解いただきたいです」 真っ直ぐな瞳のレューンに諭されて、村長はしばし目を閉じて考えに耽った。 「分かりました。漢詩方術士については、七言律詩のような長い詠唱の時はどうしても隙ができてしまうというのは、ワシも若い頃は漢詩方術士を目指して勉強したことがありますので、承知しております。二人分お出ししましょう。ただし、あくまでも成功報酬であり、また申し訳ないですが一人分の単価については少し値引きさせていただくということで、よろしいでしょうか」 具体的な金額を取り決めて、話はまとまった。とにかく、村としては早く炎の鳳凰に消えてもらいたいので、交渉がこじれることだけは避けたかったのだ。レューンもそういった事情を理解できたので、相手の都合を酌みつつも自分たちも満足できる線で合意にこぎつけた。 「それはそうと、村長さんも漢詩方術士を目指しておられたのですか」 「ワシだけではなく、この村の村長をやっているウチの家系は代々、漢詩方術士を目指して勉強しております。この書斎にあるたくさんの蔵書は、代々の村長が勉強のために少しずつ買い集めた古典資料です。しかし恥ずかしながら、ウチの家系からは一人も輩出しておりません。帝都で科挙の漢詩方術士部門に及第して翰林院に入るのが壮大な夢ではありましたが、地方都市で行われる一次試験にすら合格した者もおりません。ワシも、元々才能が乏しかった上に、今ではすっかり勉強した内容も方術の使い方も忘れてしまいました」 村長の白い眉毛がさらに長くなって重く垂れ下がったような錯覚を、レューンは抱いた。村長は自ら六〇歳だと言っていたが、実際の年齢よりも老け込んでいるように見えた。 「まあそれでも、もうすぐ孫が生まれますので、その孫が科挙に合格してくれるものと期待しておりますよ。臨月の妊婦というのは、ウチの息子の嫁なのですよ」 子どもや孫に期待するのは、どの地域でもどの時代でも同じことだ。ましてや、科挙合格を目指して多くの古典資料を蒐集した家系ならば尚更だろう。 漢詩方術を使うためには、当然漢詩を詠まなければならない。過去の詩人が作った詩を暗記して唱えるだけでは全く不十分で、自ら即興で詩を吟じることが求められる。 漢詩を読むためには、単に韻や平仄を合わせるだけでは足りない。古典文献に載っている歴史や故事を踏まえた内容を盛り込む機会も多い。詩を読む才能だけではなく、浩瀚な資料を渉猟し、幅広い知識を蓄えることも必要なのだ。 「集めた資料も、決して無駄ではありませんでしたよ。科挙を受けたいという村人がいたら、この本を貸して勉強の助けとしております。その成果で、約一年前になりますが、この村から初めて、漢詩方術士部門の地方一次試験に合格する者が一名出ました」 「そりゃすごい。まあ私も、試験を受けたことはありませんが、地方一次試験くらいは余裕で合格する実力があると自負していますけど」 すごいと言いつつ、全然感心している様子の無いレューンだった。更に自分の実力を誇示するあたりは、もはや商談のための駆け引きという問題でもない。 「一次だけではありません。一カ月ほど前に便りが届きまして、その者が帝都での最終試験にも合格しました」 「おお!」「そりゃ本当にすげえや!」 レューンだけではなく、ブ・ホゥラまでもつい感嘆の声を出してしまった。 「この村始まって以来の破天荒解の出来事でした。村を挙げてのお祭り騒ぎとなるはずだったところに、あの炎の鳳凰が出現しまして……」 「なるほど。お祝いの気分もしぼんでしまったということですか。ここは私たちにお任せください。さっそく、鳳凰を探しに行ってきます」 ●○○●◎ 二人は荷物を預けて、村長宅を出た。屋内に入る時点では春の青空が気持ちよく広がっていたのだが、交渉をしているうちに雲が多くなってきたようだ。それでも気温は下がっておらず、風は柔らかだった。 ブ・ホゥラはやる気満々で腕を撫した。 「さ、報酬をもらえる約束さえすれば、あとは闘って力で圧倒して勝つだけだ。早く出てこないかな、炎の鳳凰」 少し悲しそうな表情で、レューンは身長差のあるブ・ホゥラの角張った顔を見上げた。 「私は、あんまりそういうことはしたくないな。いつも言っているけど、こういう怪異とか妖怪とかが出るっていうのは、何らかの理由があるんだよ。その理由を理解して、きちんと問題を解決して、平和に立ち去ってもらいたいんだ」 「レューンは心優しいな。まあ、そこが女の子らしくて、いいところだけど」 「なんか、上から目線で言われているような気がするよ」 「上から目線? そりゃ当然だ。俺の方がレューンよりずっと背が高いんだからな」 「そういう意味の上から目線じゃないよ」 会話しながら、二人の足は来た道を戻っていた。今までの炎の鳳凰が森の木を焼いていると聞いたからには、当然そちらに向かうべきだった。 村を横切る形で流れる小川に懸かった橋を渡り、もうすぐ村の出入り口の門というところで、村民の誰かの叫び声が静寂を破った。 「鳳凰だ! 炎の鳳凰が飛んでいるぞ!」 「また森の上だ!」 往来を歩いていた村人たちが、森の方角の上空を指さして口々に叫んでいた。 「なんだありゃ。夕陽みたいに真っ赤だな」 「確かにあれは尋常じゃないね。この場所から見ても鳥の形をしているのが分かるくらいだから、結構な大きさだよ」 「落ち着いて状況を分析している場合じゃねえ。レューン、急ぐぞ!」 「うん、行こう」 二人は走り出したが、すぐにブ・ホゥラが先行する形になった。力自慢の大男は瞬発力にも優れ、足も速かった。だがレューンも、速さでは及ばないものの、さほど息を切らすこともなくしっかりと走っていた。 街道から外れてブ・ホゥラが森に入る。下生えの羊歯や笹などは季節に関係なく茂っているようで、前進の邪魔となった。 「邪魔な下草だな!」 所々融け残っている雪に足を取られながら、ブ・ホゥラは森の奥に入って行った。少し開けた場所に出たので上を確認してみたら、灼熱に燃え上がっている鳳凰が鳶のように旋回していた。 「かなり大きいな。普通の鳥とは、さすがに違うな」 相棒のレューンはまだ到着していないので、独り言だ。 木々の梢よりも少し上を飛んでいる炎の鳳凰は、翼を一杯に広げたら先ほどの雄牛のよりも少し上回るくらいだろうと思われる大きさだった。しかしブ・ホゥラは相手が大きくても怯むことはない。自らの力に自信を持っているし、自分より力の強い奴と戦うことが楽しみでもあるのだ。 「力で勝負だ。俺は力では絶対負けない。俺より力が強い奴がいたら、俺はそいつよりもっと強くなって行くんだ」 威勢の良い口調ではあるが、独り言だ。レューンはまだ来ていないし、炎の鳳凰も聞いていない。 「え、ええと、空を飛んでいる相手と、どうやって戦えっていうんだ」 これがブ・ホゥラの短所だ。力は強いが、その力をふるえない場面ではどうしようもない。だから漢詩方術士のレューンと組んで、お互いの足りない部分を補い合う必要がある。 「ごめんごめん、待たせたね。あ、ブ・ホゥラ、まだ焼かれていなかったんだね。間に合って良かった」 「なんだよ。その、俺が負けること前提みたいな言い方は」 ようやくレューンが追いついてきた。レューンはブ・ホゥラと炎の鳳凰だけではなく、周囲の様子もしっかり見渡して確認した。 「空を飛んでいる相手から一方的に攻撃されたら、ブ・ホゥラでは対処のしようが無いだろう。この辺一帯、森の中で開けていると思ったら、木が何本も焼かれたからだよ」 「あ、本当だ」 この開けた場所は、本来はそれほど大きく開けていたわけではないらしい。あちこちに、燃えて黒焦げになった木の残骸が横たわっている。原因が炎の鳳凰であることは疑う余地も無いだろう。これまでに大がかりな森林火災が起きていなくて幸いだった。 「生木が、こんなに真っ黒焦げになってしまうのだから、鳳凰の火力は相当なものだね。あれを退治する方術となると、かなり大がかりなものじゃないと効かないだろうね」 「いや別にレューンが奴を倒し切る必要は無い。飛んでいる鳳凰を地上に引きずり降ろしてくれれば、あとは俺の力を見せつけてやる」 「そうかい。それじゃあ」 レューンは大きく息を吸い込みながら、空を仰いだ。 「おーい! 鳳凰。地上に降りてこーい!」 大声で叫んだのが聞こえたのか、悠々と空を舞っていた炎の鳳凰は両翼を大きく広げながら下降し、二本の足で地上に立った。翼をたたんでしまえば、飛んでいる時よりは一回り小さく見える。 「ほ、本当に地上に降りて来やがった。でもこれなら俺の力の勝ちが確定したようなものだぜ!」 威嚇するように、いや、実際に威嚇なのだろう、鳳凰が翼を大きく広げた。炎の熱気が圧力のある風となって吹き付ける。ブ・ホゥラの短く刈り込んである髪の毛が熱で焦げた。焦げ臭いにおいが漂う。日焼けで赤茶けた色になっている髪の毛の先端に、赤い小さな火が灯って、その熱がブ・ホゥラの頭皮に痛みを突き刺す。 「あちちちちち!」 慌てて掌で頭を叩き、燃えかけている髪の火を消すブ・ホゥラ。 「やい、鳳凰、炎なんて卑怯じゃないか。正々堂々と力で勝負しろ!」 「炎の鳳凰にとっては、炎こそが力なんだよ」 「そこをなんとかしてくれるのが、レューンの漢詩方術のあるべき姿なんじゃないか?」 「しょうがないなあ。炎をなんとかするったら、水の術かな?」 と、レューンが言った時、ブ・ホゥラの頭に水滴がしたたった。一つ、二つ、いくつも。気がついてみると空はどんよりと灰色に曇っていて、雨が降り始めていた。 「雨か。レューン、詠唱も無しに雨を呼んだのか?」 「いや、これは自然の雨だよ。……っあっ! 鳳凰が!」 「き、消えたぞ……」 二人が見ている目の前で。炎の鳳凰はその場から忽然と姿を消した。炎に熱された空間の熱気だけがその場に残されたが、降る雨によって冷やされてすぐに消えた。 > 2 3 感想 |