| 漢詩方術士レューン |
|
前方に黒い牛の姿がこちらに向かって来るのが見えた。あれは暴れ牛だ。 「もうすぐ村に着くと思ったら暴れ牛が猪突猛進の大歓迎か!」 「いや、私が思うに、あれはお世辞にも歓迎しているとは言い難いね。それに猪じゃなくて牛だし」 ブ・ホゥラの台詞に対して、レューンは冷静に返答した。 それまでは、森の脇を通り抜けて行く道は平穏だった。時々、牛に牽かせてゆっくり進む荷車とすれ違う時には、道端に避けなければならない。昨日降った雨が轍に溜まっているので、そこからの跳ね上がりにだけ注意していれば良かった。森の中の日陰には、まだ雪が残っているようだが、日当たりの良い道はすっかり春だ。 道端では気の早い 二人の方に向かって突進して来る牛は、立派な角を生やしている黒い雄牛だ。かなり大きい。まるで激怒しているかのような、叫び声のごとき大きな鳴き声をあげながら道の真ん中を駆けて来ている。 「レューン! 避けろ!」 怒鳴りながら、ブ・ホゥラは道の脇に回避して牛をやり過ごした。ブ・ホゥラは力自慢の大柄な若者ではあるが、敏捷さも兼ね備えていた。 「避けるなと言われても、この状況なら避けるしかないね」 大男であるブ・ホゥラとは対照的に小柄な少女のレューンも、素早く体を開いて、ブ・ホゥラとは反対側の道端に寄った。黒っぽい濃紺の道服の袖と、背中に垂らした小さな三つ編みが動きに沿って揺れた。 道の両脇に避けたブ・ホゥラとレューンの間を、暴れ牛は走り過ぎた。そしてそのまま一目散に走り去ってくれれば二人にとっては都合が良かったのだが、そうはならなかった。黒き雄牛は速度を落として立ち止まったと思ったら、方向転換し、鼻息荒げながらブ・ホゥラとレューンを睨み付けた。大きな声で鳴く様子は、もはや雄叫びか咆吼とでも呼ぶべきものだった。 「どうやら闘わなければならないようだね」 十三歳の少女としては落ち着いたやや低めの声で、レューンは呟いた。 「戦いか! 望むところよ! 力は嘘をつかないのだから、俺の力を見せつけてやるぜ! 力こそ正義。力こそ真実。力こそ神。力こそ腕力。力こそ膂力!」 「最後の二つは文脈的な意味でいうと、力と同義だから。同語反復で、力こそ力、って言っているようなものだから」 「そんなことはどうでもいい! 力こそ力! 大いに結構。危ないからレューンは下がっていろ!」 ブ・ホゥラは小柄な少女レューンを庇うように前に出ると、意気揚々と腕まくりをした。が、白い衣服の袖はすぐに手首のあたりまで戻ってきてしまって意味は無かった。 もう一度腕まくりし直そうとするブ・ホゥラを待っていてくれる雄牛ではなかった。口を大きく開けて涎を垂らしながら、怒り狂ったかのごとき鳴き声を伴って、ブ・ホゥラに向けて突進してきた。二本の角で相手を串刺しにするべく、逞しい蹄で黒っぽい土を踏みしめて疾駆する。 「うぉぉぉぉっ! 俺の力を見よ!」 雄牛に負けない大声で咆吼をあげて、ブ・ホゥラは雄牛の二本の角を左右の手で握って掴んだ。雄牛の猪突猛進を受け止めた、と、思ったが、勢いを殺しきることができず、地面に足を踏ん張ったまま、少しずつ後ろに押し込まれていった。 「おいおいブ・ホゥラ、威勢のいいことを言った割には、牛に負けているじゃないか」 「うるさいな。足が轍の水溜まりに入ってしまって、滑って踏ん張りが効かないんだよ。早く援護してくれ!」 本人の言う通り、ブ・ホゥラの右足は、道に刻まれている二本の轍の片方に入り込んでいた。白い 「このまま力勝負に負けて牛に押され続ければ、歩かずに村に到着できるじゃないか。良かったね」 レューンは、自分より五歳上のブ・ホゥラに対して遠慮無く辛辣な言葉を吐いた。ブ・ホゥラと雄牛はレューンが見ている前を通り過ぎて村の方へと少しずつ進んでいる。 「いいから早く援護を頼むって! それとも即興で漢詩が思いつかないのか?」 「そんなことはないよ! 失礼だな。だったら、私の実力を見せてあげようじゃないか」 レューンは表情を引き緊めた。大きな目は少し垂れ気味ではあるが、黒き瞳に強い光を宿した。朱唇から音吐朗朗たる詠唱が紡ぎ出される。 春風駘蕩靄余暉 春風、 睡眠深閨未解囲 睡眠 莫厭重遊於短夢 陶磁高枕入霞微 陶磁の高枕、霞に 黒い雄牛を指さしながらレューンが唱えたのは、一句あたり七文字で四句から成る七言絶句の漢詩だった。詠唱に呼応するようにして方術が発動した。雄牛の周囲を、薊の花のような薄紫色の霧が覆った。その霧が雄牛の体に吸い込まれていくと、変化が生じた。 急に体が弛緩し、雄牛の進撃は止まった。生まれたての仔牛のように足元がふらつき、立っているのも覚束なくなった。 「やったか?」 二本の角を掴んでいた両手を離しながらも、ブ・ホゥラは油断無く雄牛の様子を見続けた。 「眠りの漢詩方術だよ。既存作じゃなくて即興だから、効果覿面のはずだよ。これでこの牛はしばらくは眠ったままだね」 特殊な才能を持ち訓練をした者が、体内の気を練り上げて常人には不可能な不思議な効果を生み出す技を方術という。そして漢詩を詠唱することにより更に威力を高めた方術を駆使するレューンのような使い手は、漢詩方術士と呼ばれている。 突然襲われた眠気に、黒い雄牛は抗し得なかった。涎は相変わらず垂らしたまま、両目の目蓋は次第に下がってくる。四本の脚は力が入らなくなっており、大きな胴体の重さを支えられなくなっていた。 遂に牛は、脚を伸ばしたまま右側に横倒しになった。地面にぶつかって重い音を立てる。眠っているのでなければ、かなり痛そうな音だ。 「よし、上手く行った。……って、あれ?」 レューンは瞠目した。方術が効いて立ったまま眠ってしまった牛は均衡を崩して真横に倒れた。が、地面に衝突した衝撃で、目を覚ましてしまっていた。首を持ち上げ、寝そべった状態から立ち上がろうとしている。 「おいレューン! 眠ったはいいけど、倒れた痛みで目が覚めるとか、どういう茶番劇だよ。ちゃんと方術を発動させたのか?」 「お、おかしいな。本当にちゃんと方術が効いたら、ちょっとくらいの刺激では目覚めないはずなんだけど。詠唱が、どこか失敗していたのかな?」 「おい」 「どこか一箇所くらい 言葉の最後は春の雪融けのように消え入ってしまった。漢詩方術士といっても、レューンはいまだ年齢も若く、修行中の身だ。失敗することもあった。 「まあいいさ。やはり最後に頼りになるのは、この俺の力ってことだな」 相棒の失敗を喜ぶわけではないが、ブ・ホゥラは自分の活躍の場が回ってきたことに歓喜していた。 再び立ち上がって、牛とは思えぬような咆吼をあげながら向かってくる相手に対して、ブ・ホゥラの対応は代わり映えの無いものだった。雄牛の二本の角を両手で掴み、足を踏ん張って力較べだ。 「ぐぐぐぐぐ! どうだ。俺には同じ技は二回は通用しないんだぜ!」 雄牛が押し込もうとしても、ブ・ホゥラは後退せずにその場に留まって持ちこたえた。最初のぶつかり合いのときには牛の方が突進する勢いがあったが、今はお互いに立ち止まったままの力戦奮闘だ。それに、牛の体にはレューンの漢詩方術による眠気の影響が残っていて、万全の力が入っていなかった。 牛は吠えた。鳴いた。叫んだ。されど、方術の影響が残る体でいかに力を振り絞ろうとも、怪力自慢のブ・ホゥラは壁のように立ちはだかり、動かなかった。 端から見れば、ブ・ホゥラと雄牛の熱闘は、その場で我慢しながら静止しているだけのように見えた。つまり、この場で自由に動けるレューンの行動次第で、この戦いを終わらせることができる。 「さっきは何故か失敗したみたいだけど、今度こそは……って、あれっ?」 レューンの大きな瞳は捉えていた。雄牛の黒い背中に、木の破片が突き刺さっていることを。長さとしては、レューンの手の指先から手首くらいまでだろうか。まるで、落雷に撃たれて裂けたように先端が鋭く尖っているので、何らかの理由で突き刺さってしまったらしい。雄牛はこれが痛くて、悲鳴をあげながら走り回って暴れていたのだ。 「そういうことだったのか。可哀想に。でも、もう大丈夫だから」 目を閉じて、リューンは大きく一呼吸した。臍下丹田にて気を練り上げ、同時に即興で詩を構築する。心の中で五言絶句がまとまった時、レューンは目を開けた。黒牛の背の木片が突き刺さっている部分を凝視して、静かに、だがはっきりとした口調で漢詩を吟詠する。 夢繞辺城月 夢は 陣雲之已時 陣雲、 茱萸黄菊節 郷里輒吟詩 郷里にて 夢は、戦の場である辺境の城に懸かっている月をめぐって離れない。 しかし、陣形を保ち進軍する時にわき起こる土煙の雲は、これはもう、やむ時なのだ。戦争は終わりだ。 重陽の節句というのがある。高い所に登って遠い故郷の方を見て懐かしむ日だ。その日に、茱萸という赤い木の実を身に飾って厄除けとしたり、菊酒を飲んで長寿を願ったりする。故郷に帰ろうではないか。 郷里に帰って、すなわち、詩でも吟じながらのんびりと過ごし、戦いで傷ついた心と体を癒そう。 という意味だ。つまり戦いが終わって傷を癒す方術である。 今度は押韻も平仄も間違えていなかったようだし、詩の内容もそれほど悪くはなかった模様だ。方術が発動し、牛の背に突き刺さっていた木片は、空中に浮き上がって抜けて、そのまま地面に落ちた。刺さっていた物が抜けた後の傷口は、あっという間に肉芽が盛り上がって塞がった。原因が取り除かれたこととレューンの漢詩方術の効果により、雄牛の興奮も落ち着いたようで、もう悲鳴のような鳴き声をあげることもなくなり、角でブ・ホゥラを突き刺そうと前進するのもやめた。 「おっと、力較べはおしまいかい?」 ブ・ホゥラも、牛の角を掴んでいた両手を離して、力を抜いて大きく一つ息を吐いた。騒動の元凶となった雄牛はというと、暴れて疲れたのか、その場に座り込んでいた。 「あんた、今、見とったで。唐詩方術士なのか。若いのにみごとな腕だったなあ」 背後からの声に、レューンは振り向いた。農夫らしい中年男が、遥かに年下のレューンを尊敬の眼差しで見ていた。 「今、ウチの村に妖怪が出没するようになっていて、みんな困っているんだ。助けてくれないか? ウチの村にも、去年までは唐詩方術を使える者が二人いたんだけど、今はいないんで。普通の人間じゃ妖怪とは闘えないんで、どうしても唐詩方術士の力が必要なんだよ」 唐詩方術というのは漢詩方術の別称だ。農夫の言葉に反応したのは、レューンよりもブ・ホゥラが先だった。 「妖怪退治か。ならばこのブ・ホゥラ様に任せなさい。この銀帝国で一番力の強い男になることを目指して武者修行をしているのだ。そのへんの妖怪などは、ちょっとした経験値稼ぎに丁度良い相手だ」 自信満々のブ・ホゥラの言葉に、農夫は髭の濃い顔に困惑の皺を刻んだ。 「えっと、こちらの大柄なお兄さんも、唐詩方術士なんですかね?」 「いや、ブ・ホゥラは違うよ。私はレューンといって、漢詩方術士だよ。困っている人を助けるのはいいけど、旅を続けるための路銀が必要なので、妖怪を退治した時には報酬を受け取れるよう約束してほしいんだ。どうだろう?」 「ほ、報酬か。それは、村長に相談すれば出してくれると思う。まずはオラと一緒に村に来て、村長に会ってくれないかね?」 報酬は村長との交渉次第ということだろう。ならばレューンには断る理由は無かった。報酬の話が出る前からやる気満々だったブ・ホゥラは言うに及ばない。 農夫の男が先導する形で、三人は村へと向かって行った。元々村で飼われていたのだろう、黒毛の雄牛もまた、三人に従うようにして後ろをついて歩いてきた。 ●●○○● 村長宅は村で一番大きな家であるようだった。四方を壁で囲われている四合院方式の住宅で、南北に細長い中庭では赤い牡丹や黄色い棣棠などが咲いている。 農夫の案内があったので、ブ・ホゥラとレューンは村の門をくぐる時も咎められることはなかったし、村に入ってからも道に迷うことはなかった。黒牛は、村の門をくぐってから自分の飼い主の家に帰ったのだろう、いつの間にかいなくなっていた。 「漢詩方術士? おお、禍福はあざなえる縄のごとしというが、運が良い方にめぐってきましたかな」 古典文学の本が所狭しと並んでいる書斎で面会したこの村の村長は、白髪に白髭の老人だった。 「話は既に聞いていると思いますが、村に炎の鳳凰が出没して、困っているのです。今のところ、村の住居が焼かれたことはありませんが、村の外の森で、何本も木が燃やされているのです。村人はみな、不安を抱いています。これでは、臨月の妊婦も安心して出産にのぞめません」 村長と向かい合う形で、レューンとブ・ホゥラは並んで椅子に座っていた。ブ・ホゥラは力仕事専門なので、こういった場面での交渉はレューンが行うことになる。 「案内してくれた人にも話しましたが、私たちは旅をしています。行った先々で何かの仕事をして報酬を得て路銀としています。炎の鳳凰を撃退することは承りますが、報酬のお約束をお願いします」 村長は小さく首をひねった。 「報酬ですか。ウチの村は見ての通り、畑を耕して牛や山羊などの動物を飼って生計を立てている裕福とは言えない村です。そんなに多額は出せませんが、漢詩方術士一人分ということで、なんとか頑張ってお出しします」 「一人分ではなく、二人分お願いします」 「えっ、でも漢詩方術士はあなたですよね。こちらの大柄な方は、お付きの方とお見受けしますが」 「付き人扱いとは失礼ですな。俺の方が主人で、漢詩方術士レューンの方が付き人ですぞ」 ブ・ホゥラが牛のように鼻の穴を膨らませた。 「どっちが主人とか付き人とかはともかく、私とブ・ホゥラは二人で組んで仕事をしています。漢詩方術は、漢詩を詠唱している間はどうしても隙ができてしまいますので、そこを守ってもらうブ・ホゥラは欠かすことのできない存在です。私たちは二人で、お互いの長所を活かしてお互いの欠点を補い合うようにして、銀帝国の各地を旅しているのです。相手が妖怪などといった超常の怪異であっても、ブ・ホゥラの腕力は色々と役に立ちますよ。そういう部分をご理解いただきたいです」 真っ直ぐな瞳のレューンに諭されて、村長はしばし目を閉じて考えに耽った。 「分かりました。漢詩方術士については、七言律詩のような長い詠唱の時はどうしても隙ができてしまうというのは、ワシも若い頃は漢詩方術士を目指して勉強したことがありますので、承知しております。二人分お出ししましょう。ただし、あくまでも成功報酬であり、また申し訳ないですが一人分の単価については少し値引きさせていただくということで、よろしいでしょうか」 具体的な金額を取り決めて、話はまとまった。とにかく、村としては早く炎の鳳凰に消えてもらいたいので、交渉がこじれることだけは避けたかったのだ。レューンもそういった事情を理解できたので、相手の都合を酌みつつも自分たちも満足できる線で合意にこぎつけた。 「それはそうと、村長さんも漢詩方術士を目指しておられたのですか」 「ワシだけではなく、この村の村長をやっているウチの家系は代々、漢詩方術士を目指して勉強しております。この書斎にあるたくさんの蔵書は、代々の村長が勉強のために少しずつ買い集めた古典資料です。しかし恥ずかしながら、ウチの家系からは一人も輩出しておりません。帝都で科挙の漢詩方術士部門に及第して翰林院に入るのが壮大な夢ではありましたが、地方都市で行われる一次試験にすら合格した者もおりません。ワシも、元々才能が乏しかった上に、今ではすっかり勉強した内容も方術の使い方も忘れてしまいました」 村長の白い眉毛がさらに長くなって重く垂れ下がったような錯覚を、レューンは抱いた。村長は自ら六〇歳だと言っていたが、実際の年齢よりも老け込んでいるように見えた。 「まあそれでも、もうすぐ孫が生まれますので、その孫が科挙に合格してくれるものと期待しておりますよ。臨月の妊婦というのは、ウチの息子の嫁なのですよ」 子どもや孫に期待するのは、どの地域でもどの時代でも同じことだ。ましてや、科挙合格を目指して多くの古典資料を蒐集した家系ならば尚更だろう。 漢詩方術を使うためには、当然漢詩を詠まなければならない。過去の詩人が作った詩を暗記して唱えるだけでは全く不十分で、自ら即興で詩を吟じることが求められる。 漢詩を読むためには、単に韻や平仄を合わせるだけでは足りない。古典文献に載っている歴史や故事を踏まえた内容を盛り込む機会も多い。詩を読む才能だけではなく、浩瀚な資料を渉猟し、幅広い知識を蓄えることも必要なのだ。 「集めた資料も、決して無駄ではありませんでしたよ。科挙を受けたいという村人がいたら、この本を貸して勉強の助けとしております。その成果で、約一年前になりますが、この村から初めて、漢詩方術士部門の地方一次試験に合格する者が一名出ました」 「そりゃすごい。まあ私も、試験を受けたことはありませんが、地方一次試験くらいは余裕で合格する実力があると自負していますけど」 すごいと言いつつ、全然感心している様子の無いレューンだった。更に自分の実力を誇示するあたりは、もはや商談のための駆け引きという問題でもない。 「一次だけではありません。一カ月ほど前に便りが届きまして、その者が帝都での最終試験にも合格しました」 「おお!」「そりゃ本当にすげえや!」 レューンだけではなく、ブ・ホゥラまでもつい感嘆の声を出してしまった。 「この村始まって以来の破天荒解の出来事でした。村を挙げてのお祭り騒ぎとなるはずだったところに、あの炎の鳳凰が出現しまして……」 「なるほど。お祝いの気分もしぼんでしまったということですか。ここは私たちにお任せください。さっそく、鳳凰を探しに行ってきます」 ●○○●◎ 二人は荷物を預けて、村長宅を出た。屋内に入る時点では春の青空が気持ちよく広がっていたのだが、交渉をしているうちに雲が多くなってきたようだ。それでも気温は下がっておらず、風は柔らかだった。 ブ・ホゥラはやる気満々で腕を撫した。 「さ、報酬をもらえる約束さえすれば、あとは闘って力で圧倒して勝つだけだ。早く出てこないかな、炎の鳳凰」 少し悲しそうな表情で、レューンは身長差のあるブ・ホゥラの角張った顔を見上げた。 「私は、あんまりそういうことはしたくないな。いつも言っているけど、こういう怪異とか妖怪とかが出るっていうのは、何らかの理由があるんだよ。その理由を理解して、きちんと問題を解決して、平和に立ち去ってもらいたいんだ」 「レューンは心優しいな。まあ、そこが女の子らしくて、いいところだけど」 「なんか、上から目線で言われているような気がするよ」 「上から目線? そりゃ当然だ。俺の方がレューンよりずっと背が高いんだからな」 「そういう意味の上から目線じゃないよ」 会話しながら、二人の足は来た道を戻っていた。今までの炎の鳳凰が森の木を焼いていると聞いたからには、当然そちらに向かうべきだった。 村を横切る形で流れる小川に懸かった橋を渡り、もうすぐ村の出入り口の門というところで、村民の誰かの叫び声が静寂を破った。 「鳳凰だ! 炎の鳳凰が飛んでいるぞ!」 「また森の上だ!」 往来を歩いていた村人たちが、森の方角の上空を指さして口々に叫んでいた。 「なんだありゃ。夕陽みたいに真っ赤だな」 「確かにあれは尋常じゃないね。この場所から見ても鳥の形をしているのが分かるくらいだから、結構な大きさだよ」 「落ち着いて状況を分析している場合じゃねえ。レューン、急ぐぞ!」 「うん、行こう」 二人は走り出したが、すぐにブ・ホゥラが先行する形になった。力自慢の大男は瞬発力にも優れ、足も速かった。だがレューンも、速さでは及ばないものの、さほど息を切らすこともなくしっかりと走っていた。 街道から外れてブ・ホゥラが森に入る。下生えの羊歯や笹などは季節に関係なく茂っているようで、前進の邪魔となった。 「邪魔な下草だな!」 所々融け残っている雪に足を取られながら、ブ・ホゥラは森の奥に入って行った。少し開けた場所に出たので上を確認してみたら、灼熱に燃え上がっている鳳凰が鳶のように旋回していた。 「かなり大きいな。普通の鳥とは、さすがに違うな」 相棒のレューンはまだ到着していないので、独り言だ。 木々の梢よりも少し上を飛んでいる炎の鳳凰は、翼を一杯に広げたら先ほどの雄牛のよりも少し上回るくらいだろうと思われる大きさだった。しかしブ・ホゥラは相手が大きくても怯むことはない。自らの力に自信を持っているし、自分より力の強い奴と戦うことが楽しみでもあるのだ。 「力で勝負だ。俺は力では絶対負けない。俺より力が強い奴がいたら、俺はそいつよりもっと強くなって行くんだ」 威勢の良い口調ではあるが、独り言だ。レューンはまだ来ていないし、炎の鳳凰も聞いていない。 「え、ええと、空を飛んでいる相手と、どうやって戦えっていうんだ」 これがブ・ホゥラの短所だ。力は強いが、その力をふるえない場面ではどうしようもない。だから漢詩方術士のレューンと組んで、お互いの足りない部分を補い合う必要がある。 「ごめんごめん、待たせたね。あ、ブ・ホゥラ、まだ焼かれていなかったんだね。間に合って良かった」 「なんだよ。その、俺が負けること前提みたいな言い方は」 ようやくレューンが追いついてきた。レューンはブ・ホゥラと炎の鳳凰だけではなく、周囲の様子もしっかり見渡して確認した。 「空を飛んでいる相手から一方的に攻撃されたら、ブ・ホゥラでは対処のしようが無いだろう。この辺一帯、森の中で開けていると思ったら、木が何本も焼かれたからだよ」 「あ、本当だ」 この開けた場所は、本来はそれほど大きく開けていたわけではないらしい。あちこちに、燃えて黒焦げになった木の残骸が横たわっている。原因が炎の鳳凰であることは疑う余地も無いだろう。これまでに大がかりな森林火災が起きていなくて幸いだった。 「生木が、こんなに真っ黒焦げになってしまうのだから、鳳凰の火力は相当なものだね。あれを退治する方術となると、かなり大がかりなものじゃないと効かないだろうね」 「いや別にレューンが奴を倒し切る必要は無い。飛んでいる鳳凰を地上に引きずり降ろしてくれれば、あとは俺の力を見せつけてやる」 「そうかい。それじゃあ」 レューンは大きく息を吸い込みながら、空を仰いだ。 「おーい! 鳳凰。地上に降りてこーい!」 大声で叫んだのが聞こえたのか、悠々と空を舞っていた炎の鳳凰は両翼を大きく広げながら下降し、二本の足で地上に立った。翼をたたんでしまえば、飛んでいる時よりは一回り小さく見える。 「ほ、本当に地上に降りて来やがった。でもこれなら俺の力の勝ちが確定したようなものだぜ!」 威嚇するように、いや、実際に威嚇なのだろう、鳳凰が翼を大きく広げた。炎の熱気が圧力のある風となって吹き付ける。ブ・ホゥラの短く刈り込んである髪の毛が熱で焦げた。焦げ臭いにおいが漂う。日焼けで赤茶けた色になっている髪の毛の先端に、赤い小さな火が灯って、その熱がブ・ホゥラの頭皮に痛みを突き刺す。 「あちちちちち!」 慌てて掌で頭を叩き、燃えかけている髪の火を消すブ・ホゥラ。 「やい、鳳凰、炎なんて卑怯じゃないか。正々堂々と力で勝負しろ!」 「炎の鳳凰にとっては、炎こそが力なんだよ」 「そこをなんとかしてくれるのが、レューンの漢詩方術のあるべき姿なんじゃないか?」 「しょうがないなあ。炎をなんとかするったら、水の術かな?」 と、レューンが言った時、ブ・ホゥラの頭に水滴がしたたった。一つ、二つ、いくつも。気がついてみると空はどんよりと灰色に曇っていて、雨が降り始めていた。 「雨か。レューン、詠唱も無しに雨を呼んだのか?」 「いや、これは自然の雨だよ。……っあっ! 鳳凰が!」 「き、消えたぞ……」 二人が見ている目の前で。炎の鳳凰はその場から忽然と姿を消した。炎に熱された空間の熱気だけがその場に残されたが、降る雨によって冷やされてすぐに消えた。 「雨にちょっと濡れて鳳凰のヤツが俺と力較べする前に消滅しちまった、……って都合のいい話じゃないだろうな」 「うん、鳳凰は出現したり消えたりしているみたいだから、また晴れた時には出現すると考えるべきだろうね」 レューンは空を見上げてから歩き出した。雲は厚く、しばらく雨はやまないだろう。 「次に鳳凰が出てくるまでに、対策を考えないとな。っていうか、あの炎をなんとかするだけだな。炎さえ無ければ、あとは俺の力でねじ伏せる!」 「問題は、いつどこで鳳凰が出るかだね。まあそれに関してはあの鳳凰を出している犯人に直接問いただしてみればいい」 レューンの背中で小さく揺れている三つ編みの後ろをついて歩いていた巨漢は驚きを隠さなかった。 「なんと! あの鳳凰を出しているヤツの目処がついているのかよ! だったら先に言ってくれたらいいじゃないか。んで、誰なんだよ、犯人って?」 レューンは歩きながら、後ろを振り返らずに静かに語る。 「去年までは、この村に漢詩方術士が二人いた、って村民が言っていたよね? 覚えている?」 「言っていたっけ?」 こちらも歩きながら、ブ・ホゥラは過去を回想する。過去といって遠い昔ではなく、ついさっきの交渉だ。大股で歩いてレューンに追いつき、すぐに追い越す。 「そして、つい一カ月前くらいに、この村から初めて、科挙の漢詩方術士部門及第者が出てお祭り騒ぎになった、っていう話だったよね」 「そりゃ科挙合格は凄い快挙だからな。帝都の翰林院に入って出世まっしぐらだ」 漢詩や方術を使えないブ・ホゥラにとっては自らとは無縁の話ではあったが、官吏登用試験である科挙に合格するのが極めて難しいことは誰でも知っていることだ。 「つまり、この村から二人、科挙の漢詩方術士部門を受験する人がいた。そして一人が合格した。じゃあ、残りの一人は落選したってことだね」 「なるほど! そいつが犯人ってことか。確かに、自分が落ちた科挙に、もう一人の村人が合格すれば、嫉妬で暴れたくもなるかもしれないから、可能性は高いな」 レューンの冷静な分析に、ブ・ホゥラは素直に感心していた。二人は濡れた下生えを掻き分けて冷たい水滴が跳ねるのを浴びながら、ようやく森を出て街道に戻った。 「んでレューン、その犯人は誰なんだ?」 「村長の家系は、代々、科挙を受験しているって言っていたね。だから古典資料もたくさん揃っている。でも村長は方術の才能が乏しくて、若い頃に早々に挫折したらしい」 「ああ、そういえば、そんな話をしていたかも。でもそれじゃ村長は犯人じゃないってことになるんじゃないのかな?」 「うん。犯人は村長ではないよ」 街道は、轍の水溜まりが深くなっていた。二人をそこを避けて歩いた。 「息子の嫁が臨月で、もうすぐ孫ができる、って村長が言っていたよね」 「そうか! 村長の息子か! 村の誰が合格したのか知らないけど、村長の家系以外の者が合格したのに自分が落選したら、そりゃ、良い気分ではないな」 問題解決の道筋が見えた。二人の前途を象徴するかのように、雲が少し切れて西から光が差し込み、雨もやや弱まってきたようだ。 「犯人は村長の息子だとして、それをどうやって立証するんだ? まさか炎の鳳凰を呼び出している場面を押さえるっていうほど上手く尻尾を出してはくれないだろうし」 「いやいや。さっきも言ったけど、直接本人に問いただすのさ。回りくどいことをする必要もないよ。さっさと解決してしまおう」 明日の天気を述べるような気軽さで、レューンはこともなげに言った。 「なんの工夫も無く単純に力押し、っていうやり方は、どうかと俺は思うぞ。不安だ」 「それをブ・ホゥラに言われたくはないなあ」 ●○○●● 二人は村長宅に戻った。雨に濡れたままだと風邪をひいてしまう。二人が屋内に入るとほぼ同時くらいに雨はあがった。ブ・ホゥラは思わず間の悪さを呪ったが、だからといって再び雨が降り出してほしいわけではない。 濡れた服は脱いで、予備の服に着替える。レューンの服装は少し黄色みがかった白で、ブ・ホゥラの方はほぼ真っ黒だ。今までとはお互いの白黒が入れ替わったような格好だ。 着替えが済んだ二人は、村長に対し、軽く状況を説明した。 鳳凰と対峙したものの、いざこれから勝負というときに雨が降り出してしまい、鳳凰が消えてしまったこと。今はもうやんでいるが、先ほどまで雨が降っていたことは村長も承知していたため、その説明はすんなり受け入れられた。 だが、村長の息子に会いたいという申し入れに対しては、村長は眉根を寄せてあからさまに怪訝そうな表情をしていて、隠そうともしなかった。村長の息子が犯人だと推理したことについては、伏せたままなのだ。 「息子とあの鳳凰にどういう関係があるのか、ワシにはさっぱり見当もつかないが、息子ならばもうすぐ畑から帰ってくるから、待っておればいい」 村長の息子は副村長という地位にあって、次期村長としての経験を積んでいるところだという。だが村長見習いとしての仕事が無い時は、村人たちと一緒に畑仕事に精を出している、という村長の話だった。 ブ・ホゥラは不安そうな、村長は不信感を露わにして、レューン一人だけが自信に満ちた顔で、ほどなく夕刻を迎えた。春とはいえ、夕方になると急速に気温は下がってきて、これ以上温度が下がるようなら屋内にいても肌寒さを感じるようになるだろう。 「俺に客が来ているって?」 村長の息子はほどなく帰ってきた。村長宅の、南北に細長い中庭にて、村長の息子とレューンは対面した。 村長の息子は、ブ・ホゥラよりは少し小柄なものの、一般人基準からすると偉丈夫であった。年齢は三〇歳前後らしく、顎には黒い髭をたくわえている。 「私は旅の漢詩方術士で、レューンといいます」 レューンが名乗った時に、漢詩方術士、という語を聞いて村長の息子の表情が少し動いた。 「俺はこの村の副村長のタイロンだ。漢詩方術士ということは、あれだな。鳳凰を駆除するためにオヤジが雇ったってことだろう」 「さすがは副村長。回りくどいことは面倒なので単刀直入に行こう。今回の事件の犯人はあなただろう、副村長。あなたが方術で炎の鳳凰を出しているんだ」 副村長の真っ正面から、レューンは人差し指を突きつけた。 「おいおい。何を言い出すかと思ったら。そんなバカなことがあるか!」 非難の声を挙げたのは、中庭を囲む回廊に立って様子を見守っていた村長だった。 名指しされた本人である副村長は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、すぐにある程度の状況を理解したようだった。 「ははあ。小さな漢詩方術士さん、何か勘違いしているんだな。この村には漢詩方術士が二人いて、一人は帝都に行って科挙に合格したから、もう一人は消去法で俺だ、ってことになったんだろう」 「つ、つまり、炎の鳳凰を出した犯人の漢詩方術士は自分である、と認めるのですか?」 あまりにも堂々とした副村長の態度に、レューンは少し弱気になりそうになるも、気持ちを立て直して冷静に問いかける。ブ・ホゥラはレューンの斜め後ろに控えて、成り行きを見守っている。 「残念ながらその推理は情報不足でハズレだな。俺は、確かに若い頃には漢詩方術士を目指して勉強をしていた。だけど方術の才能が無くて、早い段階で諦めたんだ」 「それは嘘ですね。本当は漢詩方術を使えるけど、使えないフリをしているだけだね」 レューンはしぶとく食い下がったが、副村長は腕組みをして余裕の表情を見せた。 「俺は、かなり早い段階で才能の無さが明らかになって、さっさと諦めて、その後はずっと次期村長になるために農作業をやっていたからね。俺が漢詩方術を使えないことは、この村の人間みんなが知っていることだよ。そもそも、俺が漢詩方術を使えるんだったら、あんた達のような余所者に鳳凰退治を頼まないで、俺に出番が来るってことじゃないか?」 「だ、だからその漢詩方術を使えない、というのが嘘なんだよ。副村長が村人全員を騙しているんだよ」 レューンと副村長が向かい合っている間を、白い猫がのんびりと横切って行った。 「俺が、漢詩方術を使えない、ということを証明するのは難しいな。この村には、去年の今頃くらいまでは、漢詩方術士が二人いたことを知っているか?」 油断無く、レューンは首肯した。副村長の台詞は、村人が事前に言っていたことと合致する。 「でも、今は一人もいないんだよ。だから旅人のあんた達に鳳凰撃退を依頼したんだよ」 村人たちはそう思っている。が、それは騙されているからだ。レューンはそう思っている。 「去年までいた漢詩方術士二人のうち、一人は帝都で殿試に合格した。もう一人は誰だと思う? 俺じゃないぜ。俺はずっと昔から方術を使えない。一年前にいきなり方術を使えなくなったわけじゃないぞ」 「あ、あれ?」 ここにきてようやくレューンは、事態の割り符が合わないことに気付き始めた。 「じゃあ、去年まで二人いた漢詩方術士のもう一人って、副村長でないなら、誰なんだ?」 疑問に答えたのは、回廊に立って成り行きを見守っていた村長だった。 「サイジュという者だよ。サイジュも去年、一次試験を受けた。だが落ちてしまった。自信満々だっただけに衝撃は大きかったらしい。村を貫流している小川に飛び込んで自殺してしまったのだよ」 レューンは村長の方へ振り向いた。 「そ、それは本当ですか?」 「村人みんなが知っておることだ。嘘だと疑うなら、今すぐにでも村人に聞き込みでもしれみれば良かろう」 もう既に夕陽は西の山並みの果てに沈んでしまっていて、辛うじて残光が空を照らしているだけだ。今から村人たちに聞き込みを行うわけにはいかないだろう。行く必要もなさそうだ。 もし副村長が去年までいた漢詩方術士の一人だとしたら、去年までは漢詩方術を使えたけど、突然使えなくなったことになる。、それはあまりにも不自然だ。 「えーと。だったら、副村長は、本当に漢詩方術は使えないんですか? あの炎の鳳凰を呼び出したのも、副村長ではない、ってことですか?」 「俺が漢詩方術を使えないフリをしているだけ、という可能性については、否定することは難しいな。だけど、臨月の妻を怖がらせてまで炎の鳳凰を出す理由がどこにあるというのかな?」 「あっ……」 レューンは見落としていた。副村長が仮に犯人だったとして、鳳凰を呼び出すことに何の利点があるのか。もうすぐ出産間近の妻を不安に陥れるという不利益に、何の意味があるのか。 「じゃあ、副村長は、鳳凰を出した犯人じゃない、ってことですか?」 「違うね。もしこれ以上俺が犯人だと言い張るなら、誰もが納得できるような証拠を出してほしいものだね、小さな漢詩方術士さん」 ●●●○◎ 「おいレューン、これは一体全体、どういうことなんだ?」 こうなっては、レューンに実施できる行動は一つしかなかった。 「すみません。本当に申し訳ございませんでした」 「俺からも謝罪します。犯人扱いしちゃってすみませんでした」 レューンとブ・ホゥラは並んで、副村長に対して深々と頭を下げた。平謝りである。 「まあ、単なる調査不足でしょう。ちょっと調べれば、サイジュがいたことはすぐに分かったはずなのに。いずれにせよ、思い込みだけで行動してはいけない、という教訓ですな」 そう言ったのは村長だ。明らかに機嫌が悪い。 「すみませんでした」「今後はきちんとレューンを指導しますので」 レューンとブ・ホゥラは村長に対しても頭を下げて謝った。 謝罪が終わっても、レューンは項垂れたままだった。背中に垂らした小さな三つ編みが、叱られた子犬の尻尾のようだった。 「で、問題は、本当の犯人が誰か、ってことだ。そうだろうレューン」 ブ・ホゥラは犯人を誤認した張本人ではないこともあり、切り替えが早かった。 話し合いの場は、古典書籍が大量に並んでいる書斎に移された。副村長は畑仕事を終えたばかりで、途中で雨に打たれたので、着替えてから書斎に入った。 「今の話を聞いた限りでは、その、川に飛び込んで自殺したというサイジュというヤツが怪しいと俺は思う。そいつ、自殺したフリだけして、本当はまだどこかで生きていて、炎の鳳凰を操っているんじゃないのか?」 「いいや、それは違いますな」 ブ・ホゥラの仮説は村長にあっさり否定された。 「サイジュの遺体は発見されていて、ちゃんと埋葬されております。遺書は見つかっていませんし、遺言のような発言もありませんでしたが、一次試験に自分だけ落ちたという状況から考慮して、川沿いの柵が壊れているところから飛び込んで自殺したものと推測されます」 「む、そうですか。やはり思い込みだけで決めつけてはいけませんな。得難い教訓です。ならば、サイジュの亡霊が、この世に未練を残して、炎の鳳凰を呼び出して暴れている、と考えるべきではないでしょうか?」 ブ・ホゥラの主張に、村長と息子の副村長は難しい表情をした。 「サイジュが自殺したのは、もう一年も前です。村のみんなも忘れかけていました。かく言うワシも忘れかけていましたわ。それが、自殺したすぐ後からではなく、今頃になって、炎の鳳凰で暴れだす、というのは理解に苦しみます」 「ですから、それはもう一人の受験生が科挙に最終合格したことに対する嫉妬じゃないんですか?」 村長と副村長は互いに顔を見合わせた。 「確かに可能性はありますな」 「でも、そんな単純な話なのでしょうか。サイジュの亡霊が犯人であるという可能性に思い至らなかった俺も考え不足だったかもしれません。でも、そんな単純な話だったら、俺でなくても村人の誰かがとっくに気付いていたようにも思うのですが」 ブ・ホゥラの言っていることは理解できる。だが、完全に飲み込むことができないでいる。だが、その飲み込めない理由を上手く説明できないもどかしさがあるのだ。 そこへ口を挟んだのはレューンだった。 「自殺したサイジュという人が、この世に未練を残して亡霊になった、というそれは矛盾していると思う」 いつもよりも更に低い声だった。 「自殺っていうのは、この世に絶望して、この世にもう居たくないと思ったから、自殺したってことだよね。それなのに、この世に未練があって亡霊になって出てくる、というのは矛盾していないかい」 「あ」 一人の少女の鋭い指摘に、男三人は弱った表情をした。 「で、でも、それでサイジュが犯人候補から外れると、調査は完全にふりだしに戻るんだぞレューン」 「分かっているさ。たとえ一番最初からやり直しになったとしても、真実を明らかにするためには、仕方のない手順だよ」 「まどろっこしいな。やっぱり、あいつを出した犯人が誰かなんて面倒なことを考えるまでもなく、このブ・ホゥラ様の力で圧倒して撃退してやった方が手っ取り早い解決なんじゃないか」 「でも、誰かがこっそり方術を使って炎の鳳凰を出しているのなら、あの炎の鳳凰を倒したところで、第二、第三の炎の鳳凰が出てくるだけじゃないのかな。やっぱり、あの炎の鳳凰の根っこを見つけて、そこを解決しないとダメだよ」 「第二、第三。上等じゃないか。出てきた奴を全部倒せば、黒幕もおのずと尻尾を出すだろうさ」 ブ・ホゥラは豪快に笑ったが、結局ここで仮説を喧喧囂囂と議論していても何も始まらない。 ここから先は現実的な話になった。 もう既に日は暮れてしまっている。ブ・ホゥラとレューンの今夜の宿をどうするか。 村にも小さいながらも宿屋はある。が、二人は鳳凰に対する用心棒として村長に雇われた格好なので、村長宅に泊まってほしいと村長に依頼された。宿に泊まっていると、いざ夜中に鳳凰が出現したとしても、呼びに行くと宿の迷惑になってしまうし、時間もかかる。ということで、村長宅の玄関に近い小さな部屋に雑魚寝という形になった。食事については、村長宅で供することとなった。ただしその食事代は、鳳凰退治の報酬から差し引くことになった。早とちりによりレューンが副村長を犯人呼ばわりしてしまうという大失態を演じた負い目があるため、報酬差し引きに対して異を唱えることは見送ったのだ。 副村長が言うには、炎の鳳凰は夜に出現したことはないという。とはいえ、それは今までの話である。今後も出ないという保証は無い。 ●●○○● 夕食をとった後、二人は指定された玄関近くの小部屋に入った。毛布を貸してくれると村長側から申し出があったのだが、断っていた。二人は銀帝国漫遊の旅をしているため、野宿をする機会も多かった。荷物の中には草臥れているものの使い慣れた毛布がある。 ブ・ホゥラ、レューンは、それぞれ自分の毛布にくるまり、暗い小部屋の中で目を閉じた。 暗闇と静寂の中で、ブ・ホゥラの規則正しい呼吸の音だけが小さく聞こえる。寝息だろうか。 レューンはそっと目を開けた。暗さに目が慣れたはずだが、部屋の様子はほとんど分からなかった。まだ眠りに入っていないが、眠気はある。いわゆる睡眼なので、視界がはっきりしないのだろう。 睡眼。 その語を思い出した時、レューンの中で一つの謎が解けた。小さな声で囁いた。 「ブ・ホゥラ、起きているかい?」 「眠っていたけど、レューンに呼ばれたので起きた」 ブ・ホゥラも囁き返した。二人とも毛布にくるまって寝転がったままなので、暗闇の中で顔を合わせない対話だ。 「あ、眠っていたのか。ごめん」 「いや、いい。いざ敵が出現した時にはすぐに目を覚まして戦わなければならないからな。それよりどうした?」 「うん。今日、黒い雄牛と戦った時のことを思い出したんだ。私の漢詩方術が中途半端な効果で、牛が横倒しになった衝撃で目が覚めてしまったよね」 「ああ。何の茶番劇かと思ったぞ」 「失敗の理由が分かったんだ。唱えた漢詩が、一文字間違えていたんだよ」 「たった一文字間違えただけで、効果が中途半端になってしまうのか?」 「二句目の二文字目だ。睡眠深閨未解囲、と詠んだけど、これは本当は眠ではなく眼でなければならなかったんだ」 少し、間を置いてからブ・ホゥラは返事した。 「大した違わないように俺には思えるのだが?」 「いや、これが大違いなんだよ。今までにも何度も言ったことあるけど、漢詩には平仄を合わせるという規則があるんだ」 「ひょうそく。確か、漢字には二種類の音があって、平と仄だというアレか?」 「そうだよ。二四不同といって、二番目の文字と四番目の文字の平仄は同じではいけないんだ。二六同というのもあって、二番目と六番目の文字は同じ平仄である、という規則さ」 「理解できん。なあ。もう寝ていいか?」 「どうせ目が覚めてしまったのなら、もう少し聞いてよ。理解しなくても聞き流すだけでいいから」 「さっき、起こしてごめん、とか言っていたのは、なんだったんだよ」 「まあそう言わないで聞いてよ。第二句目に注目してみると、第四字は閨、第六字は解だ。二四不同だから、二字目と四字目の平仄は別々でなければならない。二字目が仄の眼だったら四字目の平の閨とは別々になるから問題なかった。でも二字目で平の眠を使っちゃったから、二四不同の規則から外れてしまった」 レューンは間違えてしまった悔しさを噛み殺す。ブ・ホゥラはというと、言っていることが理解できず、聞き流すだけだ。 「それだけじゃない。もし二字目が仄の眼だったら、六字目の解が仄なので、きちんと合っていたんだけど。でも眠だと、二六同の規則からも外れてしまう。大失態だ」 「そもそも、その平仄、というのがイマイチ飲み込めない」 「全ての漢字には、平か、または仄の属性があるんだよ。譬えで言えば、平は白い服を着ているブ・ホゥラで、仄は黒っぽい服を着ている私なんだ。つまり、同じ句の中で偶数番目の文字は、ブ・ホゥラの白ばかりが並んでいてもダメだし、逆に黒ばかりもダメ。交互に並ぶ必要があるってことさ」 「難しい話は理解できないが、要はその、眠、という字が致命的に間違いだったってことなのか?」 「うん。その認識で合っている。二四不同も崩れて、二六同も狂った。更に言うと、各句の第二字目が、風、眠、厭、磁になっている。平仄は平平仄平だ。これは本来、反法と粘法からいって平仄仄平でなければならない。だから、眠、は決定的に間違いで、正しくは、眼、であるべきだったんだ」 「おい、言っている細かい内容は理解できないけど、つまりの話、漢詩方術はたった一文字間違えただけで、平仄の構造が完全に崩れてしまって術の効果が激減してしまうっていうことなのか?」 「うん。そうなんだ。だから方術が中途半端にしか効かなかったんだよ。ブ・ホゥラに迷惑かけてごめんね」 夜の中で闇は一層深さを増す。ブ・ホゥラは、レューンの方術の失敗をそれほど迷惑とは思っていなかった。むしろ、中途半端に効力を発揮した術のおかげで、黒牛と互角の力勝負ができて満足していた。しかし、心の中ではそう思っても、口には出さなかった。 「同じ過ちは繰り返さないようにしっかりやってくれ。それと、反省するのはいいが、気に病みすぎて睡眠不足になっても意味が無い。しっかり眠って体力を回復させておけよ」 「うん。分かったよ。本当に起こしてごめんね」 「レューンの気が済んだのなら、それでいい」 ○○○●◎ 結局夜中に叩き起こされることはなかった。仮に犯人が炎の鳳凰を操っているとするなら、犯人も夜更かししてまで鳳凰を出したいとは思わなかったのだろう。迎えた翌朝。天気は、やや雲は多いものの晴れだった。鳳凰びよりである。そんな言葉は存在しないが。 村長宅で朝食をいただいてから、レューンとブ・ホゥラは屋外に出た。レューンは黒っぽい濃紺の道服。ブ・ホゥラは白い服を纏っている。昨日は途中で雨に濡れて着替えてしまったが、レューンは黒、ブ・ホゥラは白というのが服の基調色だ。 二人は森に向かうことに決めていた。 が、その前に、一カ所、寄る場所があった。 「この世を儚んで自殺したのなら、せめてあの世で幸せになってね」 村を貫流する小川の畔に二人は来ていた。小川は、村の土地よりは随分低い場所を流れていた。小川に降りるためには笹が生い茂っている急な坂を降りなければならないので、とても危険だ。 だから、村の子どもが間違って転落したりしないように、川沿いには木製の柵が連なっている。随分昔に作られたもののようで、木材は黒っぽいくたびれた色になっている。 レューンとブ・ホゥラが現在立っている場所の柵は、そこだけ白っぽい新しい木材を荒縄で縛って、壊れた箇所を補修してあった。レューンはその場所に黄色と赤の花を供えた。村長宅の中庭から、いくつかの花を切り取ってもらってきていたのだ。 「科挙に合格するだけが漢詩方術士の生きる道じゃないし、科挙の試験だって一度落ちたって何回も受けることもできたのに。でも、私は漢詩方術士として、亡くなったサイジュという人の分もこの世の役に立ってみせるよ」 合掌し、静かな声で見ず知らずの漢詩方術士サイジュという故人に対して死を悼む。 弔いが終わってから、二人は昨日の森へ向かった。木が焼かれてできた空き地だ。 「いねえな。雨が降っているわけでもないのに」 本日は朝早くから好天である。 「案外、朝に弱くて寝坊している、というんじゃないか?」 「それはどうか分からないけど、いないんだったら、呼べば出てくると思うよ」 「そんな都合良く行くわけな」「鳳凰、出てこい!」 炎が激しく燃え上がる音を伴って、二人の上空に炎の鳳凰が忽然と姿を現した。 「おいおい本当に出てきやがったな。こっちには都合がいいけど」 「これではっきりしただろう、ブ・ホゥラ。あの鳳凰は、ちゃんと話が通じる相手なんだよ。力でねじ伏せるんじゃなくて、きちんと話し合ってみようよ」 レューンがそう提案した矢先だった。 ただ無目的に空を飛んでいるだけだった鳳凰が、嘴を大きく開けた。レューンとブ・ホゥラが下で見守っている中で、炎の鳳凰は全開にした嘴から灼熱に輝く炎の玉を吐き出した。 火の玉は、真下に居る二人とは全然別の方向へ飛んで行った。春の微風の中で舞う薊の綿毛くらいの速度で、ゆっくりと斜め下へ直進した。 その火の玉が飛んだ先は、広場を取り囲むようにまばらな木が生えている場所だった。木の根本、日陰のためまだ融けていなかった残雪に、火の玉は命中した。そして残雪の奥まで潜り込んだ。 一瞬遅れて、激しい爆発が起きた。火の玉に籠められていた熱量と、残雪の冷たさと水分が急激に反応したのだ。木の根本が爆発の直撃を受ける形で、木の破片が立木の間をすり抜けて勢いよく飛び散った。 「危ないっ」 ブ・ホゥラがレューンに覆い被さる形で地面に倒れ込んだ。その背中の上を破片が飛んでいった。 「あの鳳凰、こんな芸当もできやがるのか」 「昨日の牛の背中に突き刺さっていた木の破片、鳳凰がやったのかもね」 根本を木端微塵にされた木は、周囲の木の細枝を折りながら地面に横倒しになった。 ブ・ホゥラとレューンは立ち上がり、すぐに動けるよう身構える。そんな二人からやや距離をおいた場所に、鳳凰は降り立った。 「鳳凰、聞いてくれ。私は漢詩方術士レューンという。鳳凰と話し合いたい。暴れて村に迷惑をかけるのをやめてほしいんだ。そうしてくれないと、鳳凰を討伐しなければならなくなる」 炎の鳳凰から発散している熱量が大きくなった。それが圧力という形で二人に押し寄せる。 「僕を討伐するだと? できるとでも思っているのか?」 鳳凰の言葉を聞き、二人の反応は分かれた。 「しゃ、喋りやがったぞ! と、鳥のくせに!」 「いや野生の鸚鵡だって旅人の言葉を覚えて喋るよ。驚くようなことじゃないよ」 「いやだって鳥だろう」 明らかに鳳凰を軽視したブ・ホゥラの言い方に、鳳凰が気分を悪くした。 「単なる鳥じゃなくて、鳳凰だから。僕は天才漢詩方術士サイジュだ。バカにしないでもらいたい」 ●○○●● 出てきた名前を聞いて、ブ・ホゥラは半歩後ろに下がった。 「サイジュだと? 去年、科挙一次試験に落ちて、絶望して川に飛び込んで自殺したという、サイジュなのか?」 「自殺だって? 僕は自殺なんかした覚えは無いぞ。試験に落ちて、川沿いの柵にもたれかかってどうしようかと放心していたら、急に柵が壊れて転落してしまったんだ。また次の年も試験を受けようと思っていたのに」 それを聞いて、レューンはブ・ホゥラの一歩前に進み出た。 「そういうことだったのか。自殺というのは村人たちの思い込みだったんだね。冷静に考えてみれば、自殺するんだったら、わざわざ柵の壊れている所まで行かなくても、柵なんて乗り越えようと思えばいくらでもできるはずだしね」 遺書が無かったのも、自殺でないなら当たり前だ。サイジュはこの世に未練があって、炎の鳳凰となって出現していることになる。 「サイジュ、同じ漢詩方術士のよしみで、私に話してくれないかな。この世に何の未練があるんだ。それを解決すれば、安心して眠ることができるのか?」 「僕の経緯については村人から一通り聞いているんだろう。だったら分かるはずだ。科挙に合格できなかったことこそ最大の未練さ」 鳳凰の瞳には、悲しみの炎と怒りの炎と悔しさの炎が渦巻いている。 「僕は才能があったのに落ちたんだ。それも一次で。確かに、僕よりもハクの方が日頃から若干優れた能力は示していたさ。でも、わずかな差だった。それなのに、僕は一次落選。ハクは殿試にまで合格したじゃないか」 ハクとは誰のことなのか。改めて問うまでもなく明らかだった。 「ハクが一次試験で合格したのは、運が良かったからだよ。試験官の前で漢詩方術の実演をするんだけど、その試技の順番が、ハクはたまたま一番最初だったんだ。あいつ、運に恵まれていたんだ」 「俺にはよく分からないんだが、試技の順番が最初だと有利になるとか、そういうのあるのか? 力さえあれば、順番が最初だろうが真ん中だろうが最後だろうが関係なしに合格できるように思えるんだが?」 「もちろん表向きは、今、大柄なお兄さんが言った通り順番は関係なしの実力勝負さ。でもね。試験官だって人間なんだよ。何人も試技を見ているうちに飽きてくる。そうなると、心に残るのは最初に試技をした人なんだ」 鳳凰サイジュは真面目な顔で力説した。鳳凰の顔の表情の違いなど、レューンにもブ・ホゥラにも分からないが、気持ちが籠もった力説であることは十分に分かった。 「でも、地方試験の合格者って、一人に限ったことじゃないよね。優秀な人がいれば何人でも合格者を出せるし、逆に、優れた人材がいないなら合格者無し、とすることもできるはずだけど」 科挙を受けたことはないものの、レューンとて漢詩方術士の一人として、科挙の概要くらいは当然知っている。何人でも合格者を出せるからといって相応しくない人材を合格させていては、試験官の資質が問われてしまうことになる。だから、一次試験に合格するかしないかは、一次通過水準に達しているかいないかで厳正に判定されている。 「そうさ。本来なら、一次試験の合格者はこの僕とハクの二人であるべきだったんだ。だけどあの時の試験会場ではハク一人しか一次通過者は出なかったんだ。これが納得できないんだよ」 サイジュは拳を握りしめて熱弁した。鳳凰の翼のどこにも拳は存在しないが、心の中の拳はきつく握っていた。 「一次試験っていうのは、広大な銀帝国全土の地方都市で開催されている。つまり、一人の試験官が各地全部の一次受験生の試技を見ているわけじゃないんだ。もしかしたら、別の街の全ての受験生より、僕の方が優れていたかもしれないじゃないか。それなのに僕は落ちた。その試験官が見ていない受験生の成績との整合性が取れていないんだよ」 「はあ? 見ていない受験生との整合性、だと?」 ブ・ホゥラはあからさまに侮蔑の表情を浮かべた。 「そんなことを言っていたら、一次試験なんて実施しようがないじゃないか。レューン、やっぱりコイツは駄目だ。こんな愚かな考え方を持っているようなヤツと話し合ったって、時間の無駄だぞ」 ブ・ホゥラは早々に説得を諦めた。最初から説得する気もなかったが。 「僕にとって一番自信があったのが、炎の鳳凰を出す方術で、一次試験でもそれを使おうと思っていた。だけど当日、ハクのやつが最初に炎の鳳凰の術を使ってしまったんだ。ハクにとっても炎の鳳凰が得意だったらしい。それが僕の不運だった」 「サイジュとハクは、村長の家にある蔵書を読んで勉強したんだろう? 同じような資料を読むから、使う術の傾向が似ちゃったんじゃないかな?」 「動揺してしまった僕は、自分の順番の時に、満足な漢詩を吟詠することができなかった。運が悪かったんだ」 「多少運の善し悪しが影響するにせよ、本当に実力があれば、その程度の運なら跳ね返せるはずだよ。たぶん、その時の漢詩がよっぽど悪かったから、落ちたんじゃないかな」 「違う! 他の地方都市での受験生との整合性が取れていない以上、僕が落ちた理由は、運悪く試験官が厳しすぎる人だったんだ!」 炎の鳳凰は感情の起伏が表に噴出しているかのように、全身が赤く、時に黄色っぽく燃え続けている。まるで、レューンが柵のところに備えた花のように。 「本当に試験官が厳しい人だったら、ハクだって落ちていたはずじゃないか。ここで議論していても始まらないよ。その時にどんな詩を詠んだのか、実際に聞かせてみてよ」 「いいだろう。詩のみ吟じてみよう」 漢詩方術士が漢詩を詠んだからといって必ず方術が発動するわけではない。気を練り上げて方術を発動させようとしなければ、単純に詩だけを詠唱することもできる。 劫火炎赤赤 劫火 炎 赤赤たり 地獄灼熱気 地獄の 灼熱の気 大鳳熾烈翼 踊躍渭橋祝 堂々たる口調で自らの漢詩を詠みあげた鳳凰サイジュだったが、それを聞いてレューンの顔に浮かんだのは、ある意味納得の表情であり、諦めであり、悲しみでもあった。 「その詩じゃあ、別の都市の受験者との整合性どうこうの問題じゃないよ。漢詩は、ただ文字を適当に並べればいいってもんじゃないんだよ。分かっているよね」 「バカな。この詩のどこが悪いというのだ」 「全部だよ。炎の鳳凰を呼び出す術だからといって、やたらと炎に関連する語ばかり無節操に列挙しているだけじゃないか。純粋に詩としての完成度が低い」 「なんだと……」 「韻だって踏んでいないし。いやそれ以前の話として、平仄が最悪すぎる。使っている二十文字、全部仄の文字であって、平が一つも入っていないだろう」 「これは、意図してやったことだ。ハクに先に炎の鳳凰を使われてしまい、動揺して、上手く平仄を規則に合わせることができなかった。だからいっそのこととして、全部仄に染めてみたのさ」 「詩聖や詩仙くらいの超上級者が意図して規則を崩すのならともかく、炎の関連語を列挙するだけの稚拙な詩では、規則を守らなければ漢詩方術としての威力は大幅に減少してしまうのは当たり前だよ」 「嘘だ!」 「私は嘘をつくかもしれない。だけどサイジュだって漢詩方術士なら知っているよね? 漢詩は嘘をついても、漢詩方術は嘘をつかないんだ」 普通の漢詩ならば、例えば権力者に媚びて、思ってもいないようなお世辞を詠むこともできる。しかし漢詩方術は、詩としての出来が悪ければ威力が下がるし、韻や平仄などの規則に外れていても効果が劣る。 「漢詩方術は嘘をつかない……確かにその通りだが、ならば他の都市の受験生との整合性はどうなる?」 「見てもいない相手との整合性なんて考えること自体が不毛で不要なんだよ! そんなことを言うくらいだったら、自分が優れた漢詩を詠めばいいだけなんだ。サイジュは漢詩方術士としての実力が劣っていたから落選したんだ! 私が今、それを証明してあげるよ!」 「証明? どうやって?」 それに対してレューンは漢詩方術で応えた。 弄玉仙簫調 鳳凰帰故村 鳳凰 故村に帰る 小川徐緩往 小川 徐緩として 大海渺茫屯 大海 漢上林帰雁 漢の上林に雁は帰り 唐翰院集魂 唐の翰院に魂は集う 牡丹元果朶 牡丹 朱雀帝都門 朱雀 帝都の門 秦穆公の娘である弄玉が仙人に簫という笛の吹き方を学び、弄玉の簫の調べを聞いて鳳凰が飛来するようになった、という故事がある。 その鳳凰が故郷の村に帰ってきた。つまりサイジュのことだ。 サイジュが落ちた小川は、緩やかに流れ往き、いずれ広々とした大海に注ぐ。川の流れは人生にたとえられる。最初は細い小川でも、やがて出世して大河となり大成して海となる。鳳凰は、出世して大人物になることに対する象徴でもある。 帝都へ出て出世することを夢見ていたサイジュの気持ちを思いやった内容だ。 漢の武帝は帝都の上林苑という御園で雁を捕らえた。その雁の脚には布の文が縛り付けられていた。書いたのは蘇武という武将で、北方の遊牧民族匈奴に捕らえられて生死不明だったのだが、この文により生存が確認された、という故事がある。 唐の翰林院には、魂、志を持った多くの優れた人材が集う。 その唐の都の大慈恩寺は、牡丹の名所として知られる。その境内でも特に元果院というところはとりわけ素晴らしい。朶とは枝のことだ。 唐の帝都においては、皇城の南に朱雀門があり、そこから南へ延びる大通りを朱雀門街という。 この詩の後半は、朱雀、という語を導き出す内容だ。 レューンが五言律詩を唱え終わった時、真っ赤な、巨大な鳥がレューンの横に出現していた。 「そ、その鳥は?」 「そうさ。風よりも熱い翼、炎より速い心を持つ朱雀さ」 青龍、白虎、玄武とともに四神とされる朱雀は、南を司る霊獣だ。サイジュ以上に真っ赤に燃え上がっている。今は翼をたたんでレューンの横に立っているが、翼を畳んだ状態でも牛よりも大きいくらいだ。 「行け、朱雀」 レューンの指示を受けて、朱雀は翼を広げ、地面のすぐ上を滑るように飛び、真っ直ぐ鳳凰サイジュに向かって高速で突進した。 「今の律詩、孤仄が二個あったじゃないか!」 そういいながらも、サイジュは口を開けて火の玉を吐き出した。一つ、二つ。火の玉と朱雀は正面衝突したが、朱雀の前進の勢いは全く止まらない。火の玉は朱雀の莫大な熱量の中に吸収されてしまっていた。 三つ目の火の玉を吐き出そうとしていた時には、既に朱雀は鳳凰サイジュの目の前に迫っていた。鳳凰サイジュは逃げることもままならない。炎の鳳凰と炎の朱雀は激しくぶつかり合った。 「あ、熱い熱い熱い!」 体の大きい朱雀が、悲鳴をあげる鳳凰サイジュを翼で包み込むような格好になっていた。サイジュもまた炎の鳳凰でありながら、朱雀の炎に焼かれて熱さと苦痛に悶えていた。 「孤仄の禁はそれほど厳密に守らなくても大丈夫だってことくらい知っているだろう」 「熱い。熱い! 焼け死んでしまう。助けてくれ!」 「サイジュはもう死んでいるんだよ。熱さなんて感じないはずじゃないのかい」 サイジュの訴えの声は明らかに弱々しくなってきた。 「だ、けど……この、朱雀は、あ、熱い」 「押韻は上平声の十三元。これが漢詩方術の実力だよ」 そんなことはない。という反論が来るべきところだったが、鳳凰サイジュは弱い喘ぎ声を途切れ途切れに漏らすだけだった。 「このままじゃ消し炭も残らずに燃え尽きてしまいそうだから、術を解いてあげるね」 レューンがそう言うと同時に、紅蓮の朱雀は瞬時に消えた。その場には羽毛が黒く焦げた鳳凰が残った。炎の鳳凰ではない。黒焦げになって衰弱している生身の鳳凰だ。 「毒を以て毒を制す、ならぬ炎を以て炎を制した。ブ・ホゥラ、今こそ力で鳳凰をねじ伏せるんだ」 「お、おう。この時を待っていたんだ!」 意気揚々とブ・ホゥラは駆けた。 鳳凰が反応する前に、もうブ・ホゥラは自分の間合いに相手を捉えていた。鳳凰の首を両手で締め上げる。苦しそうに呻く鳳凰。ブ・ホゥラは続けて、鳳凰の首を自らの腋に抱え込み、そこから体を入れて投げた。首投げと背負い投げの合わせ技のようなものだ。 ブ・ホゥラの力の前に、炎を失った鳳凰はなすすべもなかった。鮮やかな首背負い投げを食らって、鳳凰は背中から地面に落ちた。翼で受け身を取ることすらできず、踏み潰された蛙のような哀れな声をあげて、そのままのびてしまった。 「こ、こんなにあっさり、漢詩方術士と力持ちの男に負けてしまうなんて、この僕が」 かろうじて、仰向けにだらしなく倒れた鳳凰の口から小さな呟きが漏れ聞こえてきた。 「僕は、確かに実力不足だったのかもしれない。だから、科挙落第したのかな」 途切れそうな鳳凰サイジュの声に、ブ・ホゥラと並んで見下ろしているレューンが優しく諭す。 「そうだよ。それさえ認めてしまえば、もうこの世に未練は無いだろう。静かに休みなよ」 「ああ、僕はもう休むよ。ありがとう。でも、諦めたわけじゃないから。生まれ変わって、また科挙合格を目指すよ」 そこまで言うと、鳳凰は発火し始めた。命を燃やし尽くす最期の美しい炎だった。ほどなく炎が消えた時には、もう鳳凰の姿はどこにも無かった。 ○●●○◎ 二人は村長宅へ戻った。何人かの村人たちが集まり、賑やかだった。 「生まれた。生まれた」 「元気な男の子ですよ」 女たちの声で、何が起きているのかは容易に推察できた。 「お、そうか。あの副村長の奥さん、臨月だって言っていたか」 「なんか出産で取り込んでいるみたいだね。鳳凰退治の報告は、家の人が落ち着いてからにしようと思うんだけど、ブ・ホゥラもそれでいいかい?」 「ああ、そうだな。報酬だけはきっちりもらっておかないとな」 二人は村長宅の中庭で時間潰しをした。レューンは白猫をなでて遊び、ブ・ホゥラはその横で筋力の鍛錬をしていた。春らしい暖かい日差しがあたりを包んでいた。 「いやぁ、孫はかわいいもんだ。お、これはお二方、鳳凰の方はどうなりましたかな?」 満面の笑顔で村長が回廊に出てきて、中庭にいる二人に気づいた。 「それについて、私の方からご報告します」 レューンは事の顛末について静かに語った。鳳凰の正体はサイジュであったこと。サイジュは自殺したのではなく事故死だったこと。 そして、サイジュはこの世に未練を残して死んだため、魂が死にきれず、この世を迷走していた。レューンとブ・ホゥラの二人がかりによる激しい戦闘の末に鳳凰を倒して浄化した。もう、鳳凰が出てくる心配は無い。 原則として事実をその通り報告したが、一部は脚色を加えた。亡くなったサイジュやその遺族が、村にとっての悪者にならないように。そして、あまりにも簡単に鳳凰に勝ったからといって報酬が値切られたりしないように。 レューンの説明が旨かったからか、村長は約束通り報酬を支払ってくれた。これで無事に事件解決である。 「そういえば炎の鳳凰といえば、気になることがございまして」 「なんですか村長さん。まだ何か問題があるのですか?」 「いえ、さっき生まれたばかりの孫なのですが、お尻に大きな赤い痣がありまして。それがあの、炎の鳳凰と似ているのですよ。恐らく見た者みんながそう思っているはずですが、出産でおめでたい時に言うのが憚られて、誰も口に出してはいませんが」 レューンはブ・ホゥラの方に向かって短く言った。 「生まれ変わりだね」 ブ・ホゥラもレューンに言い返す。 「村長の孫なら諦めずに科挙に挑めるな」 二人は顔を見合わせて微笑み合った。 「な、なんですかお二方。何か心当たりでもあるのですか?」 「村長、安心してください。その痣は悪いものではありません。その子が成長して科挙の勉強をする時に、助けになってくれるはずですよ」 「そ、そうですか。いえ、不吉なものではない、ということが分かればいいんです」 実際の年齢よりも老けて見える村長は、ようやく安心した表情になった。 「さて、報酬も受け取ったし、俺たちは荷物をまとめて失礼しますよ」 「おや、もう行かれるのですか?」 「はい、私たちの本当の旅はこれからですから」 白い服のブ・ホゥラと黒に近い濃紺の道服のレューンは村を出て、新たな旅路へと向かうことにした。 炎の鳳凰からこの村を救ったのだが、功績を村人達に吹聴したわけでもないので、特に感謝もされていない。村人たちは、通りすがりの旅人のことなど覚えていなくてもいい。村長から謝礼さえもらえれば、それで良かった。 しかし、ブ・ホゥラとレューンのことを覚えていて、村の出口で見送ってくれる者がいた。 白い猫と黒い牛だった。 |
|
w 2016年04月11日(月)22時52分 公開 ■この作品の著作権はwさんにあります。無断転載は禁止です。 |
|