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見えない未来に向かって
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1.プロローグ

 いつ頃からだろう。咲本絵里さきもとえりに呼び出されるようになったのは。
 いつ頃からだろう。そこに佐野唯さのゆいも加わり激しさを増したのは。
 いつ頃からだろう。考えるだけ無駄だと思うようになったのは。
 ここは衛生的に最悪で臭気に満ちた汚い場所だ。そんな場所で上梨藍かみなしあいは床に倒れて顔を付けていた。もちろん好きでやっているわけではない。
「辞めて欲しかったら便器でも舐めな」
 そう佐野が言うと数ある個室の扉の一つを開いた。その先には白い和式便器が一つだけ置いてあった。
 床に倒れたままの上梨は佐野を一瞥してから咲本を見上げた。咲本は腕を組みながら上梨を見下ろしていた。
 視線が合い咲本の目つきがキツくなる。
「なに? なんか言いたいことでもあるの」
 上梨は咄嗟に目を下ろして、いや、と一言だけ返した。
 それが咲本の気に障ったのか、咲本は舌打ちをすると上梨の腹をサッカーボールのように思いっきり蹴った。上梨の顔は苦悶の表情を浮かべ、腹を押さえて転がり回った。
 苦しい。息ができない。辛い。死ぬ……。
 上梨の頭の中にはいろんな負の感情が一気に溢れ出た。
 咲本はその一撃に満足したのか鼻を鳴らすと身を翻す。
「そろそろ授業も始まるし行くよ佐野さん」
 佐野はまだ息の整わない上梨の髪を掴み顔を無理矢理上げさせた。
「このぐらいで済んで良かったな」
 佐野のつり上がった目が垂れ下がり、気持ちの悪い笑みを浮かべていた。佐野はその一言だけいうと、上梨の髪を離して咲本と一緒にトイレから出て行った。
 さっきまで騒がしかったトイレには水が滴る音と、上梨のか細い泣き声と、授業を知らせるチャイムの音だけが残った。

2.上梨とムギ

 1.

 テレビでは梅雨入り宣言を聞いたのだけど、心とは裏腹に外は晴天で風も無く上梨は他の生徒よりも一足早く下校していた。
 あのあとはどうしても授業を受ける気にならなくて保健室に行き気分が悪いと、保健の馬場先生ばばせんせいに告げた。その結果早退することとなった。
 咲本も佐野も同じクラスだからできるなら学校には行きたくないけど、父や母には無駄な心配はかけたくない。自分の娘が苛めに合っていると知ったらどう思うだろうか。考えたくも無い。
 帰る時間にはまだ早い。どこかで時間を潰して帰ろうか。しかし、下手にお店に行くと中学生の私は目立ってしまい補導されてしまうだろう。
 わざと遠回りしていつもは通らない小さな橋を渡り、人影もまばらな公園を通ってみた。公園の時計はまだ十五時で止まっていた。
 公園を出て当てもなく歩いた私は足下にあった石を何気なく蹴り飛ばした。
 転がる石に視線を追うと、左側に石の柱の上に座る狐の石像が目に入った。そこは賀川神社かがわじんじゃの入り口だった。山の中腹にある神社に行くためには、百段ある石の階段を上がらなくてはならないのは地元では有名だけど、そのせいか今では誰もこの神社に行く人はいない。
 人目に付かなくて時間が潰せる場所。一瞬でここだ。ここしか無いと思った。
 上梨は何かに惹きつけられるように石の階段に足をかけた。
 最初は軽快な足取りで登っていた上梨だが、中盤ほどでペースが落ちていき、しまいには膝が笑い出して立ち止まってしまった。
 なぜ三十段で神社を建てなかったのだろうか。上梨は先人達に疑問しか湧かなかった。
 一呼吸してからまた階段を上り始めた。汗が垂れて呼吸が乱れる。上を見てまだまだ残りの階段があると心が折れそうなので、下だけを見て歩き続けた。
 しばらくして階段の先が無くなったので顔を上げると、そこには神社の入り口である赤い鳥居が立っていた。
「やっと着いた」
 肩を上下に動かし息切れ切れに声を出すと、マラソンのゴールと言わんばかりに鳥居をくぐった。
 神社は誰も手入れをしていないようで、石畳の間からは雑草が自由に伸びている。石畳の左右の土にも雑草が生えて膝下まで生えている。この雑草が全部花だったらさぞかし綺麗なことだろう。
 上梨は行く手を阻む雑草を飛び越えながら社の前に行くと、予想以上に朽ち果てていた。床や壁はところどころ穴が空き、天井は雨漏りと見られるシミができていた。賽銭箱も大部痛んでいたがなんとか残っていた。
 上梨は何かあったときのために、いつも公衆電話用の十円玉を持ち歩いている。それを賽銭箱の中に投げ入れ手を叩き目を閉じた。
 神様お願いします。どうか私の願いを叶えてください。イジメの無い平和な学校生活を送りたいです。
 せっかくなので効果があるとも思えない神頼みをしてみることにした。
 たぶん私の願いは聞き入れられないだろう。だって本当に神様がいたら私は今頃幸せな生活を送っているもの。
 賽銭箱の後ろの社に上がる階段に腰を下ろした。
 私が今来た鳥居の向こうでは夕日が落ちて空は漆黒の闇に変わろうとしている。神社には明かりはないが特に怖いとは思わない。神様がいないなら幽霊もいない。それなら生きている人間のほうが遙かに怖い。
 日が完全に落ちて風が強くなり夏服の半袖の制服では肌寒くなってきた。
 上梨は両腕で体を抱くように回しながら社を見た。
 ……ちょうどいいところに社があるけど入ってもいいかな。
 情熱的な夕日とは真逆の冷たい風が上梨の体を徐々に冷やし、悩んだ末誘惑に負けた上梨は少しでも暖を取るために社の中に入ることにした。
 靴を脱ぎ階段を上がり社の扉に手をかけた。中になにがあるかわからないから、興味と恐怖で少し鼓動が早くなるのを感じた。
 滑りが悪く開きにくい扉を開くと、中は暗くて何も見えなかった。今は日が落ちてしまっているのだから当然か。
 埃の臭いが酷いので、誰も掃除にも来ていないのだろう。
 社の中に入り扉を閉めてから、壁に寄り掛かる形で座り込んだ。
 日が沈んだばかりだから、多分今は十八時過ぎ。あと一時間ぐらい経ったら帰ろう。
 上梨はうずくまり顔を俯かせながら今日の出来事を頭で無意識に考え、目に涙を浮かべると静かに瞼閉じた。

 上梨は右手で眠たそうに目を擦りながら、ぼんやり霞む意識を少しずつ覚醒させた。気付けば辺りには一寸の先も見えない闇が広がり、穴の開いた天井や壁から差し込む外の月明かりだけが上梨の今いる居場所を示していた。
「やだ……、どのくらい寝てたんだろう」
 泣き疲れて知らないうちに寝てしまっていたようだった。ここは神社なのになぜ神様はいなくて私を起こしてくれないのだろうか。この際神様なんて当ての無い存在でなくてもいい。犬でも猫でも、それこそ虫だって。
 母に怒られると思うと今からでも顔が強張る。父より母の方が怖くて、父は尻に敷かれている――、と今はそんなのはどうでもいい。
 上梨は急いで立ち上がり扉に手をかけると、外から話し声がすることに気付いた。
 扉に耳を付けて聞き耳を立ててみるが、いろいろな声が聞こえて何人いるか想像もつかない。
 こんな人気がないところ来る人間ってどんなのだろうか。頭を回転させて考えてみるも、私の頭の中には近寄りがたい人間しか浮かび上がってこなかった。
 上梨は無意識に距離をとろうと扉にかけた手を下ろし一歩下がった。
 ここがオンボロの神社だという事を忘れていた。上梨が着いた足が床を軋ませ、歯ぎしりのような音が盛大に聞こえてきた。
 それを合図にしたように、外の話し声がピタリと止んだ。
 マズイ……中に入ってくる。
 上梨は静かに後ずさりしながら狭い社の奥に逃げ込み、壁の方を向きながら頭を抱えてうずこまった。逃げ込んだと言っても社の中は何もないので、隠れる場所はもちろんない。頭隠して尻隠さずとはこの状況を予期した言葉なのだろうか。
 震える上梨をさらに驚かせるように扉が勢いよく開き、上梨は頭をぎゅっと抱えキツく瞼を閉じた。
「なんでこんなところに人間のガキがいるんだ」
 足音も無く近寄り後ろから聞こえてきた声は意外と子供のような高い声で、私は拍子抜けしてゆっくり後ろを振り向いた。
そこには声に似合った小さい体の人影が立っていた。月明かりに逆光で表情は見取れなかったが、しかし、明らかに私達人間とは違う物が付いていた。頭には尖った耳が二つ、お尻からは柔らかそうな尻尾が一本出ていた。
 だんだん目が慣れてきて顔を見ると鼻と口が伸びていて最初は犬かと思ったが、特徴的な尻尾に上梨は確信した。今目の前にいるのは狐だ。
 開いた口が塞がらず唖然としていると狐が一言。
「もうガキは寝る時間だぞ」
 上梨は喋る狐を見てまだ夢の中だと思い頬を思い切りつねってみた。
 ――痛い。ということは夢では無い。
 狐が喋るなんて聞いたこと無いし、動物で話せるのはインコぐらいでは無いのだろうか。上梨は狐をまじまじと見ながら、右手で顎を摩っている。それに、上から下へとよくよく見れば狐には毛が生えていなく、色は麦のような褐色でのっぺりとした体で、うっすらと体が透き通っていた。
 それは絵本やテレビでよく見る幽霊のようなものだった。
 まさか、本物の幽霊じゃ……、幽霊の存在を信じていなくても目の前にそれらしい存在があれば、それはもちろん怖い。
 上梨は驚き後ずさりをして、壁に盛大に頭を打ち付けた。
「おい、大丈夫か?」
 狐は心配してくれているようだったが、上梨の耳には何一つ聞こえてこなかった。
 上梨は手を合わせて意味も無くひたすら謝った。生きてきた中で一番の謝罪だったと思う。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「お前なにか悪いことでもしたのか?」
 予想外の返事に顔を上げてみると、やはりそこには狐がいた。
「いや、なにもしてないですけど……」
「じゃあ何に謝ってるんだ?」
 狐にそう聞かれると私自身なぜ謝ったのかがわからなくなってきた。怖いからとりあえず謝ったものの、私はなにも悪いことをしてないので謝ることもない。
 首を傾げて考えても答えはでなかった。
「何もしてないのに謝るなんて不思議な奴だな」
「私もアナタの存在が不思議なんですけど」
 上梨ははっとして口を手で塞いだ。思わず声が漏れていた。しかし、狐はためらいも無く私の質問に答えてくれた。
「俺か? 俺は狐の霊だ。他にはなにかあるか?」
 やはり思った通り狐の霊には間違いないようだった。狐の霊と言えば、狐憑きでたびたびテレビに出てきて、お茶の間を沸かせるが、この狐はテレビでよく見るような悪い霊ではないような気がする。根拠は何一つないのだが。
「なにも無いなら俺は行くぞ。やることがあるからな」
 狐はそう言うと社から出て行った。二足歩行で人間のように歩いているが、やはり足音は聞こえてこなかった。
 上梨は口を開き呆然と狐を見送ったが、顔を振りもう一度意識を覚ますと立ち上がり、狐の後を追って社の外に出た。
 外に目を向けるとそこには賽銭箱をテーブルに見立てて野菜や魚を置き、狸や熊が品定めして狐が店主のように売りさばく、私たちの世界でいうスーパーのような光景が広がっていた。うっすらと透き通る動物の姿を見ると、どうやら狐と同じ幽霊がこの賀川神社に集まっているようだ。
「まいどあり!」
 狐は大きな声をかけると、小さな狸は器用に両手で野菜を持ち、鳥居をくぐり階段を下っていった。
 動物が人の言葉を話して買い物をしている摩訶不思議な状況に、上梨の思考は止まり目眩がしてきた。
 扉に手をつきその場にへたり込むと、それを見てた狐が駆け寄ってきた。
「おい、どうした。気分悪いのか?」
 誰のせいだと思っているのか、この狐には腹が立ってくる。
 上梨が黙っていると狐が離れていき、賽銭箱の前に立つと他の動物達の霊に言い放った。
「悪いけど今日は店仕舞いにするよ。また明日来てくれ」
 狐の言葉に他の霊達からは、せっかく来たのに、なんだよもう、など文句の声が聞こえてきた。他には、わかったよ狐の大将、明日はもっと美味そうな魚を揃えておいてくれ、などいろいろな声が聞こえてきた。
 霊にも意識があり意見があるんだ。なんだが人間とあまり変わらないかも。
 そう思うと少しだけ気分が良くなってきた。
 そこに狐が現れて柄杓ひしゃくを突き出してきた。
「これ飲め。気分が良くなるぞ」
 柄杓の中を見ると透明で冷たそうな水が入っていた。
「……これ毒とか入ってないよね?」
 いきなり差し出されて飲むほど私も落ちぶれてはいない。そもそも得体が知れない奴から水を差し出されて、はいそうですかと飲めるわけもない
「そんなの入れるわけないだろ。いいから飲めよ」
 狐は私の口に柄杓を押しつけてきて、上梨は無理矢理水を飲まされてしまった。しかし、予想外の事が起きた。
「ん、なにこれ、美味しい」
 水はキンキンに冷えていて喉の奥から頭を突き抜けるような痛みに襲われるが、口当たりがまろやかでとても飲みやすかった。
「どうだ美味いだろ? この水はこの山の湧き水だからいろんな成分が混ざり合って最高なんだ。お前ら人間の水道水なんか目じゃないぞ」
「お水ありがとう」
 一息ついて落ち着き狐をもう一度見ると、狐は白い犬歯を見せながら笑みを浮かべていた。その顔に上梨の心に少しの余裕が生まれた。
「ところで狐さん、あなたの名前はなんて言うの?」
「俺の名前? そんなの無いよ。みんなは狐とか大将とか呼んでるけど、名前はないな」
 狐は手の代わりに尻尾を左右に振りながら答えた。
 その尻尾は稲穂のような形をして、月明かりに晒されたその色は収穫間近の麦のような金色の光を放っていた。
 上梨はその左右に揺れる尻尾を見て、狐にこう名付けた。
「ムギ……あなたのことムギって呼ぶね」
「はぁ?」
 狐は眉を竦めて上梨のことを変な目で見てくる。
「だって狐さんだと呼びづらいじゃない。だから、呼びやすいようにムギって名前をつけてあげる」
「あげるって何様のつもりだよ」
 ムギの言葉にはっとした。しばらく誰とも人らしい会話をしていなかったのと不思議な出来事の興奮で、上梨はムギに馴れ馴れしい態度をとってしまった。
 これは、さっきと違い私が完全に悪い。
「ごめんなさい」
 私が頭を下げるとムギは気にしてないと、そっぽを向きながら尻尾を振った。
「そういえば嬢ちゃんは帰らなくていいのか? もう丑三つ時過ぎてるぞ」
「え? 丑三つ時ってことは午前二時を過ぎてるって事?」
「まぁ、そうなるな」
 ムギは横目で私を見ながら素っ気なくだが答えてくれた。
 上梨は急いで立ち上がると、靴を履いて石畳を走り抜けてそのままの勢いで鳥居をくぐった。
 上梨は階段を二、三段降りたところで振り返り口元に両手を当てると、ムギに大きな声をかけた。
「そういえば、私の名前は上梨っていうの!」
 ムギは予想してなかった言葉に目を大きく見開いき、上梨は続けて次に繋がる言葉をかけた。
「また来るね」

3.ムギと私の活動

 1.

 あの夜、私が帰らないことを心配した母が捜索願を出していて、近所の人たちや警察のお世話になる大騒動になっていた。
 急いで帰宅した上梨に待っていたのは、安堵の涙を浮かべる母の姿と激高する父の姿だった。普段の様子だと母と父の行動は逆なのだが、この時だけはなぜか逆転していた。
 賀川神社によりお参りをしてそのまま寝てしまったと、ムギと出会った事実だけ省いて必死に説明すると、父からは一発の軽いビンタをもらい、次に母からは抱きしめられた。
 外は寒かったが、母と父からは太陽の光にも負けない暖かさを感じた。
 上梨はそのまま両親と共に迷惑をかけた人達に謝ることとなった。近所の大人達や警察は何事も無くて良かった、と建て前でもそう取り繕ってくれて丸く収まったので良かった。本当なら夜中に起こされ迷惑千万、文句の一つでも言いたいところだったろう。
 上梨は賀川神社の階段を登りながら三日前の夜のことを思い出していた。
 階段を登り切ると、そこには赤い塗装が剥がれた鳥居に雑草がはみ出している石畳、そして、穴だらけで痛々しい社が相変わらず佇んでいた。
 石畳の上を駆けて社の扉を開けた。しかし、そこには何も無い寂しい空間が広がっていた。
 ムギは幽霊だから昼間はいないのかな。
 上梨は大きく息を吸い込むと、試しに大きな声で呼んでみることにした。
「ムギー! いるなら返事してー!」
 私の声に驚いた鳥が木から次々と羽ばたいて飛んでいく。
 静寂が訪れた神社には私以外の気配は感じなかった。
「なんだいないのか……」
 私はまたムギに会いたいと思って来たのに夜じゃ無いと会えない。だけど、私は昼間しかこの神社には来れない。これじゃ、ロミオとジュリエットみたいなお互いに成就しない話のようだ。でも、会えないならしかたないよね。
 上梨は振り向き鳥居の向かうと、後ろの賽銭箱の裏からあの夜に少し仲良くなれた幽霊の声が聞こえてきた。
「誰かと思ったら嬢ちゃんじゃないか。本当にまた来るなんて」
 その声に振り向くと、ムギは籠を背負いその中には魚や山菜がたくさん入っていた。
「どうしたのそれ」
 籠から溢れんばかりの食料に上梨は興奮気味にムギとの距離を詰める。
「これか、これは今夜配る食料だよ」
「配る食料?」
 幽霊もお腹が減るのかな。
 上梨は頭をフル稼働させるも答えなど出るはずがない。上梨はが頭を小突いて唸っているとムギが答えてくれた。
「幽霊は別に腹は減らないけど、数少ない楽しみの一つなんだ。俺はここで幽霊相手に食べ物を配って宇迦之御魂神様うかのみたまのかみさまに認めて貰って、俺も神の一員のなるのが夢なんだ」
「ウカノ……、誰それ?」
 幽霊の世界の中では有名人なのだろうか。
「宇迦之御魂神様、ウカ様は稲荷神社の主催神で穀物や食料の神様だ。俺はまだただの狐の幽霊だけど、将来はウカ様の傘下の神様になりたいんだ」
「ウカなんとかって神様はわからないけど、ムギは神様になりたいんだね。食べ物を配ってると神様になれるの?」
 私にはこの世界はわからないことしかないけど、普通の幽霊が神様になれるのだろうか。
「どうだかな。ウカ様に会ったこともないし、隣町の神様が昔、頑張って活動すればなれるって言ってただけだからな。食物の神様だし食べ物を配ってたら目に入るかな、そう思って活動してるだけだからな」
 ムギの意気揚々に話す姿に上梨は困惑した。いるかもわからないしなれる保証もないのに何故頑張れるのか。
 これは頑張っている者には失礼な質問だと思う。だけど、上梨は聞かずにはいられなかった。
「ねぇ、なんでムギは確証の無い未来に頑張れるの? そこで何もなれなかったらただの馬鹿じゃん」
 上梨の両足に下ろされている手には力が入り拳は小刻みに震えている。ムギは目を細めて上梨の目を見据えた。
 ムギはゆっくり口を開き、白い牙が見えると静かに言葉を発した。
「――付いてこいよ。裏山入ったこと無いだろ? 案内してやるよ」
 小さくても仮にも相手は幽霊。上梨は何を言われるか怖くて冷や汗をかいていたが、予想外にムギは笑顔で返事をすると、ムギは籠に入っている大量の魚や山菜を社の中に置くと、上梨の手を引っ張り社の裏にある小道に入っていった。上梨よろけて倒れそうになるその姿は、公園の遊具を見て走り出す子供に引っ張られる母のようだった。
 上梨は自分の服を見直す。白い柄物のシャツにジーパン姿に上梨は、絶対汚さないことを心に誓った。白い衣服を汚したら汚れは落ちないし母の逆鱗に触れそうだ。
 左右どこを見渡しても木が生い茂り不安が押し寄せる。安心して山を登れるのは目の前のムギの笑顔があるからだろう。上梨はムギと繋いでいる手の反対の手を胸に近づけ、ムギに置いてかれないように必死に歩いた。
 だが、小さい山とは言え山は山、次第に上梨の呼吸が乱れていった。どんだけ体力があるのこの子は。上梨は質問しようと思ったが、よくよく考えれば幽霊に体力なんてあるのだろうか。ムギの笑顔を見てると聞くのも野暮な気がしてきたから、上梨は大人しく歩くことにした。
「着いたぞ」
 そこには小さな小川が流れていて、ムギは上梨の手を離すと、待てない子供のように勢い良く小川に飛び込んで行った。上梨は肩で息を整えてムギを見ていた。
 小川の幅は五メートルほどと小さく木々に覆われたこの場所は、自然のクーラーとでも言うのだろうか、辺りには心地良い冷たい空気が漂っていた。上梨は目を閉じ両手を広げ深呼吸していると、小川からムギが上がり身を震わせ水を落とした。
「ここの川の水は美味いから飲んでおけよ。飲まないと損だぜ」
「飲んで大丈夫なの? ばい菌とか心配だけど」
「お前が腹を壊してないなら大丈夫だろ。このまえ飲ませたのはここの水だぞ」
 私は小川の前にしゃがみ込むと、両手で水を掬い恐る恐る口に運んだ。
 あの時飲んだ水の感触が口に広がり喉の奥に消えていった。
 上梨が水に舌鼓を打っていると、ムギはいつの間にか小道に戻っていた。
「早く来いよ」
 上梨がその声に振り向くと、ムギはさらに上へ続く小道を走って行ってしまった。
 上梨は右手を出しムギを引き留めようとするが、その手ではムギに届くはずもないし留められもしなかった。
 上梨は急いでその場から立ち上がりムギを追ったが、体力的に有利で小さなムギはどんどん先に行ってしまい、最終的には見失ってしまった。
「どうしよう」
 知らない山に一人置き去りにされることがこんなに心細いとは思ってもみなかった。日常生活で聞く鳥の鳴き声も、風に揺らぐ葉のざわめきも、ここでは不気味な不協和音に感じられた。
 幸い大きな山ではないので帰り道には困らないが、勝手に帰ってしまってはムギが困るのではないだろうか。いや、でも、普段は一人で行動しているから私がいなくても問題はないだろう。そもそも私を置いて先に行ってしまうムギが悪いのだ。男の子ならちゃんとリードしてくれないと……、そもそも幽霊に性別ってあるのかな。
 上梨は脳内会議を済ませ自分を納得させると体を反転させて来た道を戻ろうとしたが、ふいにムギの顔が頭に浮かんだ。
 今勝手に帰ってしまったら、次神社に来た時にいないのではないだろうか。
 上梨は学校で苛められているせいか他人に優しくされることは少ない。優しさに慣れていないのだ。優しくしてくれたのがたとえ狐の霊であっても例外ではない。
 優しくされたから好きになったとかではなくて、ただ何故私に優しくしてくれたのかが不思議でしょうがないのだ。ここでそれがわかり学校で生かせれば苛められることも無くなるのでは無いのかと思い、ムギに興味を持ち今日またこの神社に来たのだ。
 ここで帰ったら何もわからないまま終わるかもしれない。それだけは避けたかった。
 上梨はまた体を反転させて見えないムギの姿を追った。
 かなり歩いたがムギの姿は見えない。どこまで歩けば良いのだろうか。
 ここで別な不安が脳裏によぎった。先にムギが山を下りていたらどうしよう。
 可能性は低いとは思うがゼロではない。
 不安に胸が押しつぶされそうになる。ムギは私に水をくれて優しくしてくれた。勝手に帰ったりしないはず。
 上梨はムギを信じて登り続けた。すると木々が無くなり開けた丘に出た。そこにはベンチのような座るにはうってつけの大きな石が置いてあり、それに座っているムギの姿があった。
 ムギに声をかけようと近づくと、ムギが上梨に気付かないで何かを無心で見ていることに気付いた。ムギが視線を向けるほうを見ると、そこには上梨の住む須川の町並みが広がっていた。
 商店街を行き交う車に横断歩道を渡る子供、電柱に登る工事のお兄さんや井戸端会議をするおばさん達、いろんな人がいて町がまるで一つの生き物のように忙しなく動いていた。その姿は飽きが来なさそうで一日中でも眺めていられそうだった。
 ムギは私の方に耳を向けてひくつかせている。どうやら私に気付いたみたいだ。それから町を眺めながら話を始めた。
「この姿になってからは生きてた頃と違っていろんなとこに行けるし悪戯いたずらし放題だし、しばらく遊んでたんだけど次第に飽きてきたんだ。
 そんな時だったよ。たまたま行った隣町の神社で紺色の神官装束しんかんしょうぞくを着て堂々と歩く神様を見たんだ。その姿からは自身が満ちあふれてて格好良くて俺もあの神官装束を着たいと思ったんだ。
 あれを見てからかな、俺が頑張ってるのは」
「服を着たいから頑張るって女の子みたいだね」
 上梨とムギは少し笑った。

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