妖精を月の、時間に英雄が醜い内なる時間に呼び覚ます |
2 3 ※ この作品には、暴力的なシーンが含まれています。 夜空に浮かぶ、紫と青のまだら月。 吐き気がするほど、気味が悪ぃ。 「――――ぶち抜け、ゲイボルグ!」 俺が投擲した白銀の槍は、命令通りに目標を刺し貫いていた。 串を通した魚のようにされた黒い妖犬は、そのままアスファルトへと倒れこむ。 犬はすぐさま、生まれたての子馬のように立ち上がろうとしたものの叶わず。そのまま路上に伏せ、荒い息を上げる。ひと気のない夜の耕作地に、その息遣いはやけに大きく響く。 「はっ! ざまぁねぇな、クソ犬」 俺はこみ上げてくる歓喜を噛み締めつつ犬へと歩み寄ると、おもむろに槍に手をかけ、一気に引き抜いた。 犬の体は、びくんと跳ねたものの、反撃の様子はない。どころかまるで、待てを命じられた忠犬のように、大人しく地面に突っ伏したままだった。 「ははっ! なんだよ、案外おりこうさんなやつだな。……よーし、じゃあそんなてめぇにごほうびだ」 言って、蹴った。 蹴る、蹴る、踏みつける。踏みにじる。 つま先で、かかとで、足全体で、すねで。 軽快に、鈍重に、小刻みに、全体重で。 「はっ、ははっ! ほら、どうだ、嬉しいか? 嬉しいだろ? おら、どうだ! 尻尾振って喜んでみろよワン公! はははっ!」 悲鳴をあげても、血が流れ出してきても、嫌な音がしても、痙攣しだしても俺は止めてやらない。ごほうびだからな。 あー、なんて最高の気分だ! 苦悶の喘ぎ! 絶望の仕草! 飛び散る血飛沫! かすかに肉片の混じる 心地良い! その全部が気持ち良い! 「っと…………あー、こりゃもう死んだか? なぁ、どうだリオ?」 俺が声をかけると、犬の周りを手の平ぐらいの小さな光の球が飛び回って戻ってきた。 その光の中には、背中から蝶の フリルをあしらった黄色い洋服に、手首と足首にも黄色のシュシュ。頭には、タンポポの花飾りがついていた。髪は金髪というより黄色に近く、瞳は深い緑色。 リオは、せわしなく背中の翅を動かし、宙に浮いている。飛んでいるのだ。 「大丈夫、ちゃんと死んでるよこいつ! やったね、クー!」 「……ったく、人の姉貴に手ぇ出そうとするからだ、この馬鹿犬」 「あはは! ばーかばーか!」 もう動かない肉塊を、リオは素足で楽しそうに蹴りつけていた。 ああ、なんてひでーやつ! 「…………もう、朝か」 スズメの鳴き声で、目が覚めた。 携帯で時間を確認すれば、時刻はまだ六時前。春とはいえ少し冷え込んだ空気は、温かい布団から出るのが辛くなる。 「んー? おあよ……クー……」 僕の上で、リオが眠そうに目をこすっていた。それを見て、僕は何気なく、妖精も睡眠不足になるのかな? とか考える。 「むにゃ……クー、もう起きるの? 昨日、あんなことがあったのに」 「あんなことがあったせいで、目が冴えてるの」 そんな話をしながら、僕はベッドから抜け出た。 リオは「うーん、眠いよー」とか言いつつ、ぱたぱた飛んで僕の肩に。 部屋を出て階段を下りると、台所の方からは包丁が刻む小気味のいい音が響いていた。 一旦、顔を洗いに洗面所へ。それが終わってから台所に入った。 「あら、おはよう太一。今朝は早いのね」 包丁を片手に、そんなことを言いながら振り返ったのは瀬端明日香、僕の姉さんだ。 「おはよう、姉さん。なんか目が覚めちゃってさ。今朝のごはん、なに?」 「もうすぐ出来るから座って待ってて」 言われるまま席につくと、ほどなく食卓に料理が並べられる。一通りそろってから、姉さんも席について準備完了。いただきますをして、朝食がはじまる。 僕の家に、両親はいない。 二年前に事故で他界してからは、ずっと姉さんとの二人暮らし。四人がけの食卓に二人きりは少しさびしいけど、もう慣れてしまった。 もっとも、最近はそこにリオという居候が加わったんだけど。 「はい、今朝はタンポポと豚コマの炒め物、ツクシの佃煮。ギシギシのお味噌汁。それと、ヨモギをおひたしにしてみまーしたっ」 どーよ! とばかりに、野草のメニューを読み上げる姉さん。 我が家では、こんな献立は日常茶飯事だ。 今の時期はフキノトウ、ツクシ、タンポポ、スイバ、ギシギシ、オオバコ、ヨメナ、ヨモギ、カラスノエンドウに、ハルジオン。片田舎ということで、食べられる野草には事欠かない。 では早速とばかりに、僕はタンポポ豚コマ炒めに手を伸ばす。 うん、おいしい。 塩コショーと共に、タンポポの風味が口の中に広がる。少し苦く、それでいてかすかに感じる旨味。その辺に売ってる小松菜やほうれん草より味わい深い。それが豚コマの旨味と相まって、なんとも言えない味をかもし出している。 「どうかな、太一。おいしい?」 黄色いフリルのエプロン姿で、新妻よろしく聞いてくる姉さん。なんだか気恥ずかしくなって、僕はちょっと顔を逸らす。 「ふ、普通だよ。ふつー」 「普通? 普通になに? ちゃんと答えなさい、太一」 「普通に、おいしいです……」 「うむ、よろしい」 ご満悦な様子で、姉さんがうなずいた。 「最近ね。仕事場の近くに穴場を見つけたの。空き地にタンポポとかがたくさん生えててさー。まだまだとってきた分が冷蔵庫にあるから、今夜はタンポポのフルコースにするわね」 「いや、昨日もそうだったよね。それ……」 昨夜のタンポポ尽くしを思い出すと、僕は突っ込まざるを得ない。 「あと、庭で家庭菜園してるでしょ。あれも使おうよ。なんのために育てたのさ?」 訊くと、姉さんはついと目を逸らして。 「……なんかあいつらのこと、最近いとおしく見えてきちゃって」 「そんなしみじみと……」 「あはは! ばかだー! 本末転倒だー!」 肩の上で、リオがお腹を抱えて笑った。 早くに両親を失くしたということで、僕らの生活はそれほど楽じゃない。 姉さんが近所のスーパーに働きに出ているものの、給料のほどはたかだかしれたもの。月々の生活費、光熱費、水道代、食費、そして僕の学費。 生活保護をうけてなんとかやりくりしているものの、それでも辛い状況だったりする。 そんな事情があるから、姉さんは野草料理は、少しでも食費を浮かそうという涙ぐましい努力だったりする。 「そうそう、太一今年受験でしょ? どう、ちゃんと勉強出来てる?」 「ばっちりだよ。心配ないって」 僕は炒め物で少し脂ぎった口の中を潤すように、ギシギシのお味噌汁に口をつけた。 「そう、だったらいいけど。あんたはあたしと違って出来がいいんだから、しっかり勉強しときなさい。受験失敗して後悔しないようにね。あたし、あんたには期待してるんだから。良い学校入って、良い仕事についてよね。それでたくさんお金かせいで、あたしに楽させてよね」 「……すごいプレッシャーかかるんだけど」 「かけてんのよ」 ふふっ、と笑う姉さんだけど、笑えないからね、それ。 「ねぇ、やっぱさ。僕、大学は諦めて高校卒業したら就職したほうが良いんじゃない? 学費だってかかるんだし」 「いいの、太一は大学に行って生物工学だっけ? を勉強したい、って言ってたじゃない」 「そりゃまあ、そうなんだけどさ……」 それは父さんたちが生きていたらの話だよ。 なんて言葉を、ごはんと一緒に飲み込む。 「太一、今はその気持ちだけで十分よ。気にしないで、太一は好きな道に進みなさいな」 そう言って、姉さんはふっと柔らかな笑みを浮かべた。 けれど、その笑顔を見ていると、いつも言いようのない気持ちが沸きあがってくる。罪悪感とか、無力感とか、そんな感じのマイナスな気持ちが。 化粧っけのない顔に、荒れた指先、着古した服を目にする度、僕の胸の中は、いつもすまない気持ちでいっぱいになるっていうのに。 本当は、姉さんはもっと綺麗なのだ。 男の僕よりも、すらっと背が高くて、長めの黒髪が似合ってて。よく友達にうらやましがられた。そんな自慢の姉さんなのだ。 だからこそ余計に、姉さんの今の状況は、僕にとって耐え難いことで。 「ふぁーあ…………っと、ごめんなさい」 「疲れてるの、姉さん?」 大あくびに心配して聞いてみると、姉さんは「ううん、そうじゃなくて」と手を振って否定。 「どうも最近夢見が悪くてさー。変な夢ばっかり見るのよね。太一のほうはどう?」 「え? いや、僕の方は……」 見てないけど、と答えると姉さんは何かを思い出したような、表情をした。 「そう言えばさー、最近太一、夜に誰かと話してない? 時々、出歩いたりもしてるみたいだけど。もしかして……彼女でも、出来た?」 「い、いないよ! そんなの!」 「ふぅ~ん?」 僕の返事をどう受け取ったのか、姉さんはにまにまと表情を緩める。 「……追求されると面倒だ、さっさと出よう」 「らじゃ!」 小声でリオとそんなやりとりをしてから、僕は席を立った。 「ごちそうさま、僕もう学校の準備しなきゃ!」 そそくさと食器を片付けて、台所を後に。なるべく慌てた感じを出すために、駆け足で階段を登る。 「……まさか、妖精と一緒に戦ってる、なんて言えるわけないよね」 「だね~」 自分のことなのに、他人事みたいに相槌を打つリオだった。 ――――リオと出会ったのは、一週間ほど前のことになる。 姉さんが観葉植物にとタンポポの鉢植えをくれて、夜にそのつぼみから現れた。それがリオとの、最初の出会いだった。 ……なんとも嘘みたいな話だけど、実際にそうだったんだから仕方がない。 もちろん、僕も最初は夢か何かだと疑った。 けれど頬をつねれば痛いし、消えもしない。それならと早めに寝ても、翌日もそのままだわ。姉さんに見せても当然のように見えていないみたいで、すごく心配された。ものすごく心配された。 じゃあ、と何かの薬か病気の類を疑ったものの、怪しげな薬なんか口にした覚えはないし、それらしいものに近づいた記憶もない。 だから実際のところ、リオのことはストレスか何かで見ている幻覚、ぐらいにしか思っていなかった。 つい、昨日までは。 学校方面へ向かうバスを待ちながら、僕は肩の上で退屈そうにしているリオを見やる。 と、その視線に気づいたリオが、首をかしげた。 「どうかした? クー? あ、昨日のブラックドッグにやられた傷でも痛む?」 「いや、大丈夫だよ。全然平気」 言いながら、僕は左腕をさすってみせた。 袖をめくれば、そこに昨日の跡が残っている。 ブラックドッグに噛まれた傷跡だ。 ただし、跡が残っている程度で、出血も痛みもない。むしろ、いつも以上に調子がいいぐらい。 普通なら、絶対にこんなのじゃ済まないだろう。 こんなのを見たら、妖精でもなんでも、信じるしかないよな……。いや、それよりも昨日のは…………。 そんなことを考えているうちに、バスが来た。 定期を見せて、バスに乗り込む。丁度通学通勤時間ということで、それなりに席は埋まっていたものの、運良く空いている席を見つけてそこに腰掛けた。 「……なぁ、リオ」 「んー?」 他の人にはリオは見えないから、変な風に見られないように、僕は小声で話しかける。 「昨日みたいなやつ、また現れるのかなー」 「ブラックドッグのこと? うん、まだメイヴは諦めてないよ。きっと、次はもっと強い妖精を送り込んでくるね!」 自信満々に言い切るリオに、僕はたまらずため息をついた。 「やっぱりそうなのか……。で、ええっと……ごめん、なんだっけ。昨日も聞いたけど、その……メイヴってなに?」 「メイヴはね、クインメイヴ。悪い妖精の女王なの」 「妖精の女王、か。そのメイヴがどうして姉さんを……?」 「さぁ? でもきっと、すっごく悪いことを企んでるんだよ! それは間違いないよ。リオが言うんだから絶対だよ」 リオは腕組みしてそう言うものの、それはあまりに曖昧すぎた。 「えっと……あのさ。悪いことって、例えばなに?」 訊いてみたものの、リオはそっと目を逸らしただけだった。待ってみても、答える気配なし。 「リオ、もしかしてわからない?」 「…………クーにはわかるっていうの」 「わかりません」 「やーい、やーい! クーのばーか!」 一転、揶揄するリオに、僕は苦笑いを浮かべるしかない。 どうにもリオは、妖精としてはまだ子供のようで、時々こういう言動をする。サイズこそ小さいものの、見た目は今年二十二の姉さんと同い年ぐらいに見えるというのに。 「……ま、とにかく姉さんを狙うやつが来たら倒すだけか。昨日みたいに、クー・フーリンの力で」 言って、僕はぐっと拳を握り締める。 クー・フーリンについては大昔にやったゲームに出てきたから、ほんの少しだけ知っている。 それによるとクー・フーリンはケルト神話に登場する英雄で、普段は美男子なんだけど、いざ戦いが始まるとゲイボルグという槍を操り、狂戦士と化す…………とかなんとか。 かなり昔のことだから、あんまり覚えてないんだけど。 「そう言えば、あの時の僕、なんか性格とか口調も変わってたよね」 「かっこ良かったよ! リオ、あっちのが好き!」 「そ、そうかな……」 そう言われると、ちょっと悪い気はしないけど。いくらなんでも中二病っぽ過ぎるような気がしないでもない。 「けどまあ、姉さんを守れるなら、なんでも良いか……」 「あ。リオ、知ってる。クーみたいなの、シスコンって言うんだよね?」 「うるさいなぁ……」 僕が軽く睨みつけると、リオは、きゃは! と声をあげて、飛んで逃げた。 なんて素早いやつ。 「なんだろうと、僕はこの力で姉さんを守るんだ、絶対に」 ぐっと拳を握り締めて呟くと、ひらりリオが舞い戻ってきて、その手にそっと腰掛けた。 それから真っ直ぐ、らしくない真面目な面持ちで、僕の瞳を射抜くように見つめてきた。 「そっかー。それが、クーのゲッシュなんだね!」 「……ゲッシュ? ゲッシュって何さ」 その問いかけに対する回答は、なかった。 「…………来た」 夜、自室で過ごしていると、リオがぼそりとつぶやいた。 携帯で時刻を確認すると、十時を少しすぎたところ。 その直後に、世界が変化を始める。携帯に表示された数字が、見たことのない模様のようなものに。淡い月明かりは、青と紫のまだら色に。街灯は深緑、室内灯は赤に変化する。 さらにどこかから、女の人が歌うようなあえぐような、そんな声が聞こえてきた。 「妖精の時間、か……」 リオに教えられた名前をつぶやいて、僕は準備を始める。 クローゼットを開けて、レインコートを取り出す。それを普段着の上に羽織って、洋服かけの奥にしまっておいたものを取り出す。 長さは僕の身長ほど、重量はごく軽く、白銀に輝いている。 クー・フーリンが使ったとされる槍、ゲイボルグ。それを手にして、僕は……いや、俺は部屋を出た。 姉貴を起こさないよう、足音を忍ばせ、玄関から外へ。 春になったとはいえ、それでもまだ冷たい空気が肌を撫でていく。 「あーあ、今日もまた、薄気味わりぃことになってんなぁ」 そこかしこの民家から妙に甲高い笑い声が聞こえるなか、俺はやれやれと嘆息する。 「クー、こっち! こっちから、悪い妖精の気配を感じる!」 薄闇の中、淡く光るリオについていく。 ……昨日と同じ方向か。ってことは、この方角にメイヴの本拠地でもあるのかもな。 なんとなくそんなことを考えながら、俺はひと気の少ない耕作地へと足を踏み入れる。 「そろそろ昨日の場所だな……」 「うん、そうだね」 そんなことを話しながら、歩を進めていると、前方に人影を見つけた。 昨日、クソ犬をぶち殺した場所だった。 「クー!」 「ああ!」 リオの声と共に足を止め、槍を構える。 まず目に付いたのは、昨日と同じ犬だった。 黒い、大きな犬。薄闇に、紅く光る眼が浮かび上がる。さらに犬とは思えない、金属がねじれるような唸り声をあげていた。 リオ曰く、ブラックドッグ。変幻自在の妖犬で、別名ヘルハウンド。 昨日と同じ敵だった。 まさか、殺したやつが生き返った、なんてことはないだろうけどな……。 だが、そんなこともあるのかもしれない。そう思ってしまいそうになる。 ただ、昨日と違って、その場所にはさらに二人、女が立っていた。 一人は、背が高い、黒い女。 長い黒髪に、黒い服を着込んでいる。顔は薄暗いせいでよく見えないというか、髪が顔を隠している。 対照的に、もう一人の方は全身からほのかな光を放っていた。 髪は黄金色に輝き、瞳は深い緑色。着ているものは、白を基調としたドレスで、夜だというのに日傘のようなものをさしていた。 しかし、それよりも目を引いたのは、その背後だった。 翅だ。 リオと同じ、蝶のような大きな翅が、その背中から生えていた。 「あいつが、クインメイヴ……」 直感的につぶやくと、リオが無言でうなずいた。 「てめぇが、姉貴をどうにかしようとしてるやつか!」 距離をとったまま声をかけてみるも、返答はない。 「ちっ、だんまりかよ、気にいらねぇな……」 槍を構えて歩み寄ると、黒い女がメイヴを庇うように前に出てきた。同時に、メイヴも犬と一緒に数歩下がる。 「んだよ、まずはお前からか? いいぜ、かかってこいよ」 軽く挑発してやると、黒い女は軽くウォーミングアップをするように、拳を鳴らした。続けて、肩、首とほぐすように動かす。 その次の瞬間、だった。 黒い女が、恐ろしく耳障りな甲高い声を発したのは。 「ぐ……っ?! なん……っだ、これ!」 激しい 「クー、気をつけて! あいつバンシーだ!」 バンシー……死を告げ、嘆く妖精か! 「だったら……せいぜい嘆いてろ! ……てめぇの死をなぁ!」 叫び、ゲイボルグを構え、駆け出す。 バンシーが、こちらに一歩踏み出した瞬間を狙い、槍を突き出す。 が、バンシーは紙一重でそれをかわし、そのまま突撃してくる。 …………く、速えっ! 即座に横薙ぎ、しかしこれもバンシーは体制を低くして回避。さらに距離を詰めてくる。 もう槍では対応しきれない。そう判断し、即座に手を放す。すぐさま拳を構えるが、もう間に合わない。 見る。 バンシーの掌底が、あごの下から迫ってきていた。 「…………くっ!」 とっさに後方へ跳――――。 「――――っ、ぅわっ!」 気づけば、そこは僕の部屋だった。 それもベッドの中で、いつもと代わり映えの無い風景がそこに広がっていた。 カーテンのかかった窓の外はうっすらと明るくなってきていて、夜が明けたことを示していた。 着ているものは、昨日の夜のまま。レインコート姿で、ベッドの脇にはゲイボルグが転がっていた。 「え…………? どうして僕、ここに……バンシーは? メイヴは?」 心臓が、どくどく言っていた。 あのあとどうなったのか、どうやって帰ってきたのか。あるいは全部夢だったのか。 何も覚えていないのと、かすかに首が痛むことが、余計に不安をあおる。 「クー! 良かった、目を覚ました!」 そんな声が耳元で聞こえて、目を向けるとそこにリオがいた。 「リオ、僕は…………バンシーにやられたの? あと、なんでここに…………」 そう言いかけて、気づく。 「………………っ! そうだ、姉貴っ!」 はっとしてベッドから、部屋から飛び出た。廊下を走り、姉貴の部屋へと向かう。 メイヴは、姉貴を狙っている。 だったら、僕がやられたってことは! 「姉貴っ!」 叫ぶと同時に、姉貴の部屋のドアを開けると、 「あー…………おぁよ、たいひ…………ふぁ……んー、まだ四時半よ?」 普通に、パジャマ姿で、寝ぼけ眼の姉貴が、ベッドに横になっていた。 「え? あれ? …………いや、えっと、姉貴が……姉貴がさ…………あれ?」 なんだか拍子抜けしてしまって、僕は戸惑いを隠せない。しどろもどろになっていると、姉貴はまだ眠いのか、目をこすりながらあくびを一つ。 「どうしたの太一、そんな顔して。……あ、わかったー。太一も怖い夢でも見たんでしょー」 くすっと笑われて、僕は急に恥ずかしくなってきた。 「なっ、なんでもねぇよっ!」 そう言って誤魔化すも、姉貴はくすくすと笑っている。 なんだ、これ。すげぇやりづらい。 「もう笑うなよ、姉貴……」 「それよりなーに、その姉貴って。そう呼ばれるのって、なんか変な感じー」 「えっ? …………あ」 指摘されて、初めて気づいた。 くそっ、クー・フーリンの時の口調にひっぱられてるな、僕。 「ごめん、ちょっと慌てて……それじゃ、起こしてごめんね、姉さん」 それだけ言って、僕はドアを閉めた。 「良かった…………」 ほっと息をついて、姉さんの部屋のドアに体を預けて、ずるずると床に腰を下ろした。 「本当、良かった……」 じわりと涙がこみ上げてきて、視界が歪む。 いるはずの誰かが、いなくなる。 その悲しみを知っているだけに、怖かった。 「大丈夫、クー? 平気?」 ひらひらとリオがやってきて、僕の肩に乗った。小さな手で僕の頬に触れて、心配そうに顔を覗き込んでくる。 「ああ、ごめん。なんか、安心したら涙が出ただけだからさ」 「ほんとに? ほんとのほんとに大丈夫?」 「大丈夫だよ、ほんとのほんとに」 そう言うと、リオはそれ以上何も言わなかった。 メイヴに……バンシー。 心の中で、その名前を呼んで、歯噛みする。 姉さんに、手は出させない。絶対に! 「絶対に、次は殺してやる……」 窓の外、空はまだ、夜の色に染まったままだった。 ○ 姉さんの仕事場は、チェーン展開しているスーパーマーケットだ。主に、そのレジ打ちをしている。勤務時間は、だいたい朝八時から夕方五時まで。その様子は、駐車場側からでもガラス張りの窓越しにうかがえる。流石に休憩中なんかは、バックヤードに入ってしまうからわからないけど、こればっかりはどうにもならない。 とりあえず、朝から見ていてわかったのはそんなところだ。 駐車場の隅の縁石に腰掛ける僕は、温かな春の日差しに目を細めた。 「これ、バレたら怒られるんだろうなぁ、姉さんに……」 「そうだね、リオもそう思う」 「けど、そうも言ってられないからな……」 「うん、リオもそう思う」 うんうん、とうなづいてくれるリオがいて、ちょっとほっとする。一人でやっていたら、きっと心細かっただろう。 いったい僕がなにをやっているのかというと、姉さんの監視だった。 今までのところ、メイヴとその手下が現れたのは夜、妖精の時間だけだ。けど、それは今後もそうとは限らない。 だから僕は、メイヴとの決着がつくまでは姉さんを見守ろう、そう考えたのだ。 今日は平日だから、学校の方は風邪をひいたということにして休んだ。 帽子を目深にかぶりコートを着込んで一応変装もしている。ゲイボルグはどうしても目立ってしまうから、家に置いて来た。 ふと空を見上げれば、春の暖かな日差しがまぶしい。 見慣れた色合いの、鮮やかな世界。平凡なものの、見ているとどこか落ち着いた。 そんな風景を見ていると、まるでここ数日の出来事が嘘のように思える。あの、陰惨な空気の漂う、妖精の時間とは真逆の景色に、心が癒されるような、そんな気がした。 ……今、姉さんを守れるのは僕だけなんだ。 そんなことを考えていると、不意にあたりが暗くなった。 びっくりして振り返ると、そこにはいつの間にか、日傘を手にした女の人が立っていた。 それも綺麗な金髪と、透明感のある白い肌をした、緑色の目の女の人だ。日本人ではありえない。歳は姉さんと同い年ぐらいだろうかと考えるも、外国人だからあまりあてにはならなそう。 その隣に、もう一人いた。 黒い女の人だった。 黒のスーツに身を包み、マスクをしていて顔はわからない。背の高い、黒髪長髪の女だ。こっちは、どこか空ろで血走った目をしていた。 その二人を見て、僕ははっと気がつく。 そんな奇妙な二人組、そうそういるもんじゃない。 「クー、この二人……」 「ああ、メイヴと、バンシーだな」 ぞわっと背筋を、通り抜けていくものがあった。 「昨日の夜以来デスネ。セバタタイチさん?」 少し硬い日本語をつむぎながら、メイヴが微笑む。 どうして僕の名前を知っている。 一瞬、そんなことを思ったものの、すぐにどうでもいいことだとその考えを振り払う。相手は妖精の女王だ、それぐらいわかるんだろう。 > 2 3 感想 |